日本のクラブ・カルチャー黎明期に及ぼしたヤン富田の影響とは?
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後にヤン富田が正規リリースする、ジョン・ケージの〈4分33秒〉のカヴァーをしたライヴ会場にいたのだから、この文章を書く資格が僕にも少しはあるのかもしれない。
少しばかり大袈裟に、戯画化したものとして書くならば、日本におけるヒップホップのスタート地点を雑誌「ポパイ」の86年8月25日号に掲載された見開き2ページということにしてみよう(またヤン富田の作曲によるいとうせいこう&タイニーパンクスの“東京ブロンクス”を収録したアルバム『建設的』(ポニーキャニオン)も86年にリリースされている)。〈アジダス、アディダス、マイ・アディダス・エレキテル〉というキャッチ・コピーと共に、6人の男がアディダスのスポーツ・ウェアを着て登場している。藤原ヒロシと高木完が映画「クラッシュ・グルーヴ」とランDMCのシングル“My Adidas”のリリースにリアクションした結果、友達を集めてのシューティング、となったわけだ。
さて、スタイリストの山本康一郎やDJのジャンボに混ざって、ヤン富田がいささか、ぎこちなくポーズをとっている。これはヤン富田が日本でヒップホップが始まったときにすでにそこにいて、そのグループに属していたということを示す。実際、当時のリスナーにとってはヤン富田は謎のマスターマインドのようで、少しわかりにくい存在だった。76年からスティールパン奏者として活動を始めるが、本人はそれをインダストリアル・ミュージックとしての解釈だと言う。中西俊夫がWATER MELON GROUPなるラウンジ・エキゾチカ・ユニットを結成する場合にも、彼は必要不可欠な存在だった。スティールパンとラウンジ・エキゾチカの関係は理解できるが、ヒップホップとヤン富田の関係は半可通にはわかりにくい。そして彼の製作総指揮で作られたいとうせいこうの『MESS/AGE』もストレートなヒップホップ作品だったか? いや、当時からそうではなかった。『HOW TO DJ PART 1』というDJの教則レコードなるものも作っていて、その中のサンプリング・ループはそのままジャングル・ブラザーズのセカンド・アルバム『Done By The Force Of Nature』(Warner Bros.)にて流用されたことから、凡人でも当時から、彼があるパースペクティヴを持って仕事をしていたことがわかる。それは彼が冷静に自分の作品に仕上げることができたということだ。セミナルなアイデアだけのとき、ヤン富田がそこにいつでもいたように思える。逆に当時のクラブ・シーン/ミュージックはヤン富田というアーティストを擁するだけの力を持っていた。
ビートルズはいまどう響くか? 彼らが映るニュース映像を見て泣き叫ぶ60年代のティーンエイジャーの気持ちはわからない。クラブ・ミュージックも、電子音楽も、こうした時間の流砂から逃れることは難しい。それを是とするか。ではヤン富田は? 彼は、あるとき、あるアイデアで、何かを行い、次に移る。スタイリッシュと感じる人もいるだろうし、勇敢だと思う人もいるだろう。80年代にヤン富田は、この国に初めて活発化したクラブなるものと幸福な時期を過ごしたのである。その後の両者の関係についてはまた別の話だ。