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第2回――ザ・ピーナッツ

連載
その時 歴史は動いた
公開
2009/05/21   03:00
更新
2009/05/21   17:50
ソース
『bounce』 309号(2009/4/25)
テキスト
文/久保田 泰平



41年4月1日。エイプリル・フールといった風習などない時代ではありましたが、愛知県常滑市で食品卸業を営んでいた伊藤家では、ウソのようなホントの話に〈まさか〉の声が上がっていました。産婆すら予想もしなかった双子の女の子の誕生。その時こそ、日本のポップス黎明期を動かしたデュオ=ザ・ピーナッツとなる命が誕生した瞬間でした。

10歳の頃に揃って唱歌隊に入り、中学の頃には日本舞踊を習うなど、エンターテイナーとしての原石を磨いていった姉の日出代、妹の月子は、高校に入った頃に美空ひばりに憧れ、地元のジャズ・ピアニストに就いて本格的な歌のレッスンを始めます。そして〈伊藤シスターズ〉の名でレッスン代わりに地元のクラブにも出演した彼女たちに、自身のバンド=シックス・ジョーズを率いてクラブ巡業をしていた渡辺晋(〈ナベプロ〉の通称で知られる大手芸能事務所、渡辺プロダクション創設者)が目を留め、2人をスカウトします。その後2人は高校を中退し、上京。日々猛レッスンを重ねたのち、ザ・ピーナッツ(姉はエミ、妹はユミ)と命名され、59年2月“可愛い花”でデビューします。 

“可愛い花”はニューオーリンズのジャズ・サックス奏者、シドニー・ベシェが52年に発表した“Petite Fleur”に日本語詞を乗せた哀愁漂うナンバーで、舶来モードのポップスが一般的に浸透していなかった当時としては異例のヒットとなりました。同じ年に発表した“情熱の花”も大ヒット。シックス・ジョーズと共に精力的な地方巡業をこなしながらも、開局間もないフジテレビの人気番組「ザ・ヒット・パレード」にレギュラー出演するなど、ザ・ピーナッツは一躍お茶の間のスターになっていったのです。その後も“ふりむかないで”“恋のバカンス”“ウナ・セラ・ディ東京”“恋のフーガ”など数々のヒット曲を送り出す一方、日本テレビ「シャボン玉ホリデー」のレギュラーや映画「モスラ」に出演、さらには海外遠征、雑誌グラビアなどなど、引退までの16年間はロカビリーやGS、フォークなどといった流行の波ももろともせず、日本のポピュラー音楽界を賑わせ続けました。

親しみやすいキャラクターとポップで上質な楽曲もさることながら、ザ・ピーナッツが大衆から大いに受け入れられた要因は、なんといってもその歌声です。絶妙なハーモニー、奇跡にすら思えるユニゾンの響きは、双子ならではという以上のものだと感じられました。その素晴らしさは、のちに同じプロダクションが輩出するキャンディーズにも受け継がれた感はありますが、ザ・ピーナッツほどのデュオ/グループには、いまだお目にかかったことはありません。

 

ザ・ピーナッツのその時々



『可愛いピーナッツ』 キング(1959)

初の10インチ・アルバム。ジャズやラテン音楽の匂い、そして完璧なハーモニーとリズム感。日本の大衆音楽がポップスではなく〈流行歌〉と呼ばれた時代に、ここまで洒脱な音楽がどれほどあったことだろう。“可愛い花”を聴いてEGO-WRAPPIN'“色彩のブルース”を思い起こす現代っ子リスナーもいるのでは。

 

『バカンスだよピーナッツ』 キング(1963)

デビュー以来、ラテン系のカヴァー作品が多かったが、62年にはアメリカのティーン・ポップスに呼応したダンス・ナンバー“ふりむかないで”が大ヒット。そして、同一路線でよりメロウなナンバーが翌年発表の本作収録の“恋のバカンス”です。ともすればイマドキの高校生にも知れ渡っている大ヒット曲。

 

『フィーリン・グッド~ピーナッツの新しい世界』 キング(1970)

〈バカラック〉〈ボッサ〉というテーマで編まれたカヴァー集は、見事にA&Mテイスト。ボッサ風“スピニング・ホィール”なんて素敵すぎ! なお、本作には未収ですが同年発表のシングル曲“しあわせの誓い”は作曲に沢田研二、編曲はクニ河内という秀逸なニュー・ロック歌謡でした。

 

『気になる噂/ベスト・オブ・ザ・ピーナッツ』 キング(1970)

後年、椎名林檎が“東京の女”をカヴァーしているけど、流石にこの時期になると歌謡アレンジの楽曲が目立つ。が、それでも決してバタ臭くならないのは、2人のハーモニーのおかげ。本作発表の翌年に解散、後輩のキャンディーズが“年下の男の子”でブレイクし、時代は変わる。

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