追悼〈KING OF POP〉――ポップ界の巨人が歩んだキングス・ロードを振り返る
そこにいた人が急にいなくなるような寂しさ、じゃない。窓から見えていたデカい建物が一晩寝て起きたらなくなっていたような、不思議にぼんやりとした気分のままでいる。そこにあって当然だったものが抜け落ちた世界、マイケル・ジャクソンのいない世界は、何も変わらないようでいて、あまりにも昨日までとは違う。
50歳でのファイナル・カーテン。復権を予感させたロンドン公演を目前に控えての急逝というタイミングは、あまりにも出来すぎたスタントのようだし、ポップスターの呆気ない最期という意味ではエルヴィス・プレスリーを連想させる部分もある。もちろん毎年、毎月、多くのアーティストやミュージシャンが天寿を全うしていて、そのサイクルは止めようもないわけだが、MJに関してはその死を悼むのと同じぐらい、惜しい、悔しいという気持ちが強い。それは、ここ数年でリリースが具体化してきていたニュー・アルバムを心待ちにしていたからだ。再結成バンドの同窓会でもなく、キャリアのボーナス・トラック(失礼)的な大御所のリプレイでもなく、現在進行形であることを自身に義務付けていた希有なスターの刺激的な輝きが、望ましい形で証明される機会が奪われてしまったからだ。そうでなくても、MJから貰うものはまだまだたくさんあったし、そう確信していたからこそ、何と言うか、悲しいよりも先に悔しいとしか言えないのである。
一方で、違和感のある報道の不快さを挙げていけばキリがないし、それはアーティストとしてのMJを楽しんできた人なら同じ思いだろう。何億枚のセールスを上げた華々しい成功、それとは裏腹に不遇な私生活……といった紋切り型の絵を描くのは結構だが、いまなお〈肌を漂白した〉とかいうタブロイド紙をソースにした憶測を平気で認知してしまっているTV番組とかさ。まあ、必死で検索してプリントアウトされた資料を読んでるだけなんだろうけどな。オイ、オマエさ~、だいたい憶測でモノを言うってことは、オマエの毛髪が偽物だってデマを流されるってことだろ(巨泉風に)。
と、大衆の下品な欲望を受け止めるのがある種のスターに課せられた宿命だというのは否定しようもないが、少なくともMJに関してはその本分である音楽キャリアそのものがマトモに伝えられているとは言い難いから、何とも歪んでいる。“Dancing Machine”で見せたキレキレの動きも、世界一の名曲と言っておきたい“Rock With You”も、極上の震えを刻み込んだ“Lady In My Life”も、シャープな“In The Closet”も、美しく浮かぶ“Butterflies”も、やっつけで歌った“Torture”も全然知られていないぞ。どうなってんだ。
いきなり神輿に載せて担ぎ上げたりするのもそこから落とすのも、本質的には同じ行為である。生ける者を泥水に漬けるのも、故人を必要以上に洗い浄めるのもそう大差ないと思うから、アーティストとしてのMJを非人間的な聖人として扱うことは避けたい。ほとんど神に近い存在だったけれども、MJはMJである。素晴らしいトリビュート曲“Better On The Other Side”におけるゲームの〈You're Michael Jackson, I'm Michael Jackson, we all Michael Jackson〉というラインを裏返せば、MJも私たちと同じ普通の人間であり、ただ、尋常じゃない歌や作曲やダンスの才能に恵まれていただけなのだからして、本来であればその音楽的な奮闘や作品そのものが、もっとストレートに賛否の対象となるべきだろう。そして、その音楽がついに真っ当に評価されるチャンスが訪れたのだ。ということで、bounceはそうします。
※マイケル・ジャクソンのキングス・ロードを一望できる特集はこちら
▼マイケル・ジャクソンが遺したソロ作品を紹介。