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発光する協奏曲 ~坂本龍一・沢井一恵の交差が生み出すもの~

カテゴリ
o-cha-no-ma LONG REVIEW
公開
2010/03/04   20:38
更新
2010/03/04   21:05
ソース
intoxicate vol.84 (2010年2月20日発行)
テキスト
text:磯田健一郎

 坂本龍一が沢井一恵のために書き下ろす《箏協奏曲(仮題)》4月に初演!

「全6曲は、ひとつながりの《交響》曲として聴かれる。古典的な《交響曲》の重々しさといういみでなく、ほんらいの《鳴り響き交わし》といういみで。」(林光)

一枚のアルバムのライナー・ノートの一節が長く意識の底に沈殿し、一定の時間を経過したのちにもひとりの作り手が行動規範を形成するときの参照項としてあり続けることなど、めったにあることではない。坂本龍一『千のナイフ』のライナー・ノートに書かれた林光の「鳴り響き交わし」というフレーズと細野晴臣のあの有名な「3拍子そろった」音楽の定義は、ぼくにはそういう存在なのだ。十代後半でそれらに接して以来、ぼくはずっとそれらフレーズを反芻している。

『千のナイフ』、トラック3。高橋悠治が参加する《グラスホッパーズ》を聴く。沢井一恵がいう「発光するピアノ」を耳で追ってみる。

「坂本龍一さんのピアノソロコンサート。真暗闇の空間に、発光する音を聴いた、視た。太古のしじまに灯る発光した音!」

今度は、そう語る沢井一恵が奏でる高橋悠治《橋をわたって》の序奏を思い出す。ベトナムの記憶の中にひそやかに美しく、しかしきりりと背を伸ばして確かに灯る、「太古のしじまに」発光した、〈音〉。

沢井、坂本。そのふたつの発光体が交差する演奏会が行われる。坂本龍一が沢井のために書き下ろす《箏協奏曲(仮題)》が、沢井一恵の独奏、佐渡裕指揮・兵庫芸術文化センター管弦楽団の演奏で初演されるのだ。同管弦楽団の定期演奏会として4月9日、10日、11日に兵庫県立芸術文化センターで開催。東京では4月13日に東京オペラシティコンサートホールで催されることとなった。沢井のために書かれ、沢井によって初演されたグバイドゥーリナ《樹影にて 〜アジアの箏とオーケストラのための》の再演も予定され、求心力の強い高密度なプログラムとなっている。また、ほぼ時を同じくして『ジョン・ケージ : 3つのダンス[プリペアド箏ヴァージョン]』など沢井のアルバム3タイトルもリリースされる予定であり、この演奏会と合わせ箏の現在座標を確認できる春となりそうだ。

坂本のコメントを読む。

「箏か・・・困った。ぼくは邦楽を全然知らないし、楽器の知識もない」

沢井は語る。

「坂本龍一さんのピアノ・ソロコンサートにうかがったとき、暗闇のなかでずっと目をつぶって聴いていたのですが、坂本さんがピアノの高音で弾かれる「ひゅー」という音が発光しているように感じられたのです。こういう発光する音が出せる人に、どうしても箏に関わってほしいと強く思いました」

再び、坂本。

「邦楽あるいは邦楽器との何らかの取り組みは、日本生まれの作曲家ならば、人生のどこかで必ず出会わなくてはならないイニシエーションのようなものだろう。いつかは、真剣に向き合わなければならない時がくる」

「邦楽を全然知らない」坂本の《千のナイフ》の「第二主題」(あるいは「コラール主題」)に重ねられたシンセサイザーの音色のひとつ。そのアタックとポルタメントにアジアの撥弦楽器、特に箏の記憶が参照されているのは明らかだ。それ以降、アジア、沖縄から南米、あらゆる「フィールド・ワーク」を重ねた坂本龍一が通過しようとする今回の「イニシエーション」は、あの時代の「参照(ひとつのパブリック・イメージへの、批判的参照だったかも知れない)」とはまったく異なった視線でもって箏を、そして坂本自身に内在する音の遺伝子を切断していく作業となっているのだろう。高橋悠治がなした仕事とは違う位相でそれら切断面が再配置され連結されたとき、沢井との邂逅は《協奏》曲としてではなく、《交響》曲として発光していくことになるのかも知れない。

そう。本来の、「鳴り響き交わし」という意味で。

 

「筝とオーケストラの響宴」
佐渡裕(指揮)沢井一恵(筝)
兵庫芸術文化センター管弦楽団

4/13(火)19:00開演
会場:東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル
グバイドゥーリナ:樹影にて~アジアの筝とオーケストラのための(1998)/プロコフィエフ:バレエ組曲《ロメオとジュリエット》より/坂本龍一:筝協奏曲(仮題)[初演]
http://www.operacity.jp/



佐渡裕© Jun Yoshiimura