微細な音楽の襞を照らす、職人気質の演奏家

ドイツ出身のピアニストに対し、言葉の定義もその意図する内容も明らかにすることなく、安易に〈ドイツ伝統の〉云々という冠を被せたがるのは、我が国の評論界の悪い癖、ないしは評論の怠惰の典型例たるものの一つである。ゲルハルト・オピッツは、彼が制したのがルービンシュタイン・コンクールであるように、アルトゥール・ルービンシュタインを目指しているとしか思えないほど、幅広い音色を操る、もっと柔軟性のある奏者なのだから。
彼は、時に燦めき、時に沈鬱に響く多彩な音色と、絶妙のペダリングによって、混濁させることなく多くの声部を浮き上がらせ、歯切れの良い音楽を生み出す。それは時に、いやしばしば楽譜の指示を大いに逸脱してでも己の感情の赴くままに詩情を優先させた、彼の師匠の一人でもあるケンプのスタイルとはまるで異なるものだ。そもそもケンプは、ドイツのコルトーとも呼ぶべき、感受性の権化であったことを忘れるべきではないだろう。では、ケンプに触れたことによって触発された詩情とルービンシュタインの多彩な音色を、いかに己の中で結び併せ、現代にいかに活かすか? オピッツの出発点も真骨頂たる演奏の魅力も、ここにこそあると言うべきだろう。
ヤノフスキ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽楽団とのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集は、混濁なき音色と爽快な打鍵、それを支えるきびきびとした指揮者とオケの邂逅が生んだ名演だった。オピッツのドイツ音楽は、ブラームスなどでも高い評価を得ているが、彼のグリーグ、あるいはフランス音楽などを知っていれば、オピッツをドイツ音楽の継承者、などという狭い範疇に押し込み、安易なレッテルを貼ることが、いかに彼に対して礼を失した行為であるか、おのずとわかる筈だ。
すみだトリフォニーホールで行われるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会には、ヴァイオリン協奏曲の編曲こそ含まれていないが、あの全集録音から、もう15年もの年月が流れている。嘗ての全集では、燦然たる音色も渋い音色も、いずれも過不足なく出せる音色のパレットを持ちつつ、指捌きにペダリングまで含めて、オールラウンドな技術を備えた奏者であるだけに、かなり早いテンポで、颯爽たる爽快な演奏を聴かせてくれた。血気盛んな第1の疾駆感、軽やかに弾いて新鮮な息吹を吹き込んだ第3、《皇帝》という異名を持つ第5さえ、過度な重さを取り除きつつも強靱な打鍵を用い、逆に曲の重みを浮き彫りにした。軽視されがちだが、他に代え難いコケットリーのある第2、音楽史上、革命的なピアノ・ソロで始まる第4における、心に迫るインティメートな表現も、一層の深度を増していることが期待される。
ドイツ出身の巨匠ではあるが、オピッツは、もっとユニバーサルな演奏家である。そのことを、今回も彼はその清冽な音色で、我々の耳に届けてくれることだろう。
『ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全曲演奏会』
2010/3/25(木)19:00開演
曲目:ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番 ハ長調、ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調、ピアノ協奏曲第3番 ハ短調
3/26(金)19:00開演
曲目:ベートーヴェン/ピアノと管弦楽のためのロンド 変ロ長調 WoO.6、ピアノ協奏曲第4番 ト長調、ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調「皇帝」※ロンドは協奏曲第2番終楽章の初稿
ゲルハルト・オピッツ(P)ヘンリク・シェーファー(指揮)新日本フィルハーモニー交響楽団
会場:すみだトリフォニーホール
http://www.triphony.com/