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映画『人生に乾杯!』

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公開
2010/05/11   16:03
更新
2010/05/11   16:32
ソース
intoxicate vol.85 (2010年4月20日発行)
テキスト
TEXT:冨永昌敬(映画監督)

罪無き老夫婦が最後の誇りを奪われた時、痛快活劇は転がりはじめた!

老人はテレビをよく見る。死んだうちの祖母など、テレビの前に座ってる姿しか思い出せない。足を悪くしてからは他に何もやることがなかったせいか、一日の大半を茶の間の中央に腰掛けて過ごしていた。

祖父は『新日本紀行』や『シルクロード』などの社会科系の番組をよく見ていたが、祖母はどんな番組でも選り好みせず、いつまでも番組表に従順に生活していた。あらゆる情報を不特定多数の一般へと垂れ流すテレビに対し、それを無条件で丸ごと受けとめ飲み込んでゆくさまはうわばみのようであった。

僕や弟が勝手にチャンネルを変えても、突然ファミコンを始めても、祖母はまったく咎めることはなかった。べつに好んで見ていたわけではなかったのだろう。朝起きるのは遅かったが、いつもNHKの放送終了時刻までテレビを見続け、深夜二時くらいにようやく眠りについていたほどだったので、ほとんどテレビ中毒と呼んでもよかった。ことによるとファミコンの画面すら、祖母にとっては怠惰な快楽だったのかもしれない。彼女は僕が映画監督になるのを待たずに鬼籍に入ったが、もし間に合ったとしても、深夜放送か何かでまったく無感動に見た僕の映画など、彼女の記憶のなかでたちまち次の番組によって上書きされたことだろう。

本作『人生に乾杯!』の主人公は老夫婦である。テレビを見ることが生活の中心であるところなど、やはり世界共通というか、地上からテレビが消失したら多くの高齢者が路頭に迷うことになるという消極的なヴィジョンを観客に提示するかのようだ。彼らは隣人を招き、お茶を飲みながらクイズ番組を楽しむが、その昂奮から冷めると、古ぼけた集合住宅には倹しい生活の労苦が待っている。都市生活者でもある彼らはみな、家族の重鎮として子や孫にあたたかく囲まれて暮らしているわけではない。独居でこそないにしても、公共料金の督促など、外部からの干渉の矢面に立たざるを得ないというのは、それなりにきついものに違いない。

そんな罪なき彼らが最後の誇りを奪われたとき、悲劇、いや痛快活劇は転がりはじめるのだが、その〈誇り〉というのが妻のダイヤの耳飾りであったとこの目に知ったとき、テレビ中毒の祖母を持つ僕には腑に落ちなかった。ダイヤじゃなくてテレビだろう、というのが偽らざる感想である。この映画の作者は、テレビという老人に不可欠な生活道具を効果的に登場させながら、要のところで美談に溺れてしまったのだろうか。

しかしそれによってこの映画の魅力が損なわれたわけではない。転がりはじめた彼らを救ったのも、やはりテレビなのであった。無謀な逃避行を続ける二人は、ニュース番組に報じられることによって国中に同調者を生み出し、追跡する警察内部にさえシンパが一人二人と芽生えてくる。その様子を見ていると、この映画は『人生とテレビに乾杯』と名を改めたほうがより親近感が得られるのではないかと思ったのだ。