日本の音楽史にその名を刻んだアーティストのドラマ
今年の3月まで金曜深夜にフジテレビで放送されていたヴァラエティー番組「キャンパスナイトフジ」。MCやレポーターを務める一般の現役女子大生が看板となっていたこのプログラムは、83年から91年まで同局で放送されていた「オールナイトフジ」の復刻版的なニュアンスを含ませているものだった。また、その「オールナイトフジ」の女子高生版として、やはり同局で放送されていたのが「夕やけニャンニャン」(85~87年)。80年代を象徴し、いまだ影響力を及ぼしている2つのヴァラエティー番組、そこに構成作家として関わっていたのが当時作詞家として頭角を現していた秋元康だった。「夕やけニャンニャン」からは番組に出演する女子高生たち=おニャン子クラブをはじめ、ソロ/ユニットが続々と歌手デビュー。そのほとんどの作詞は彼によるもので、最初に手掛けたおニャン子クラブ“セーラー服を脱がさないで”がヒット・チャートを駆け上った〈その時〉が、まさに作詞家・秋元康のビッグバンの始まりだったように思う。
作詞家を本業と謳いながらも、放送作家や脚本家、音楽/TV/映画のプロデューサー、映画監督など多くの肩書きを持つ秋元だが、業界でのキャリアのスタートは高校在学中に始めた放送作家だった。やがてその仕事に物足りなさを感じた彼は81年、Alfee(現THE ALFEE)のシングルB面曲“言葉にしたくない天気”を手始めに作詞家としての活動を開始。82年の稲垣潤一“ドラマティック・レイン”のヒットによってその名を知られるようになった。言葉遣いのなかに時代のトレンドを巧みに忍ばせながら放送作家出身らしい遊び心を含ませたスタイルは、アイドル隆盛期の80年代半ばになってさらにもてはやされるようになり、小泉今日子“なんてったってアイドル”、本田美奈子“1986年のマリリン”、そして一連のおニャン子クラブのナンバーなど、それまでのアイドル・ポップにおける歌詞の概念を次々に覆してヒット曲を量産していった。そしてその斬新な手腕は女子アイドルのみならず、同時期にブレイクしたとんねるずに〈まじめな歌〉を歌わせるなど幅広く発揮されたのだ。
その後も作詞家、音楽プロデューサーとして数々のヒット作品に関わってきたが、近年特に大きなスポットを浴びたのはAKB48での仕事だろう。おニャン子クラブの成功を踏まえたものであることは確かだが、トレンド・ウォッチャーとしての彼の眼力や遊び感覚がいまだ有効であることを、グループのもてはやされぶりが何よりも証明している。
秋元康のその時々
おニャン子クラブ 『My これ! Liteシリーズ おニャン子クラブ』 ポニーキャニオン
デビュー曲“セーラー服を脱がさないで”であっけらかんと歌われる〈友達より早くHをしたいけど〉の一節は、それまでのアイドル・ポップにはなかった、いや、NGとされていたフレーズ。続く“およしになってねTEACHER”では先生の前で純情ぶってる女子高生を描くなど、〈女の子って実はこうなのよ〉的な世界観が同世代男子にはたまらなかった。真ん中モッコリ。
稲垣潤一 『SHYLIGHTS』 ユニバーサル(1983)
当時のトレンドでもあった都会的なアーバン・ムードを染み込ませた“ドラマティック・レイン”は、稲垣潤一にとっても作詞家・秋元康にとっても出世作となった一曲。この2人のタッグはその後も長く、稲垣最大のヒット“クリスマスキャロルの頃には”(92年)も秋元のペンによるもの。
ジェロ 『約束』 ビクター(2009)
秋元作詞のヒット曲“海雪”から露骨なまでに発せられる〈THE演歌〉な匂いは、かつてとんねるずに書いた“雨の西麻布”にも通じるものがある。それはともかく、秋元作品はヤング&ティーン向けのポップスばかりかと思いきや、美空ひばり“川の流れのように”や和田アキ子“やじろべえ”など、とにかく幅広い。
AKB48 『神曲たち』 キング
キング移籍以降のベスト盤が登場ですよーっ!――ってことで、近年における秋元の大仕事といえば、作詞家/プロデューサーとして関わっている彼女たち。未完成な女の子集団、ユニット派生なんてところはおニャン子クラブの手法を踏襲したスタイルですが、発信媒体をTVから劇場に変えた〈会いに行けるアイドル〉というコンセプトはナウな感覚だし、リアルなスクール・ライフをキャッチした歌詞ももちろんアップデート済み。