──作品そのものと、音楽家のスタンスをしめすことば
10年を一区切り、など意味があるとはおもえないけれど、『高橋悠治の肖像』『高橋悠治対談選』、どちらも1960年代から、ほぼ10年ごとの作品/対話をおさめるという点で、この音楽家の列島でやってきたことをある程度でも見渡すによすがにはなる。
2枚組『高橋悠治の肖像』は、昨09年7月、水戸芸術館での同名のコンサートを収録。初録音がほとんどで、しかも演奏者は高橋作品をくりかえしステージで奏でているわけではない。あまり手になじんでおらず、はじめてだから、これでいい、というおもいこみもない。いいのか、との迷い、逡巡が含まれているのが、作品=解釈の絶対化、スタンダード化を拒み、同時に、聴き手にもさまざまな距離を、余白を差しだしてくる。ギターにしてもオルガンにしても、こんな作品があるのかとの驚きもあろう。しかも、声が、ことばが、介入してきたりする。聴き手は、楽器や声のひびきとともに、どこかしら、英語やドイツ語がわかる/わからないはべつにして、意味の引力を意識しながら、聴くことになる。
『対談選』は、わたし自身が編者なので口幅ったいのだが、それなりにいろいろな対話者との組みあわせを試みたつもりだ。日本語で「対談」といっても海外ではつうじない。対等というより、インタヴューと受けとられる。だが、ブーレーズに、ノーノに、ユン・イサンとことばを交わす高橋悠治は、無難な聞き役ですむわけはないのである。スリリングな問い掛けこそにどんなふうに反応するのかは見もの、と言っていい。だから、この本では、二者が対等なありようとともに、高橋悠治がインタヴュアーとなったり、逆に、問いをむけられる側になったりと三通りの姿を読むことができる。対話者の多彩さも強調したい点。
作品そのものと、音楽家のスタンスをしめすことば、と。CDと本、ほぼ同時期に世にでるというのも、偶然以上のものを感じとれるなら──。