DVD+カタログ『ヴァイタル・シグナル──日本の初期ビデオアート』
──60年代〜70年代の日本におけるビデオアートの軌跡
ビデオ:“綻びた”映像の行方
バーバラ・ロンドン(MoMAキュレーター)が本DVDに寄せた「境界の間で:1970年代の日本のビデオ」において、日本におけるビデオ・アートの創始者のひとりと目している、美術批評家、東野芳明(1930~2005年)は、その特徴について「日常的時間の流れと同じように、だらだらと変哲もないものを映すのが特色だが、これが、マス・メディアのとりこぼしている私的な、いわば“綻びた”映像を発見してゆくためには大へん面白いメディアだと思う」(『朝日新聞』1972年10月24日)と書いている。
60年代を一貫して、東野はテレビというメディア(テレビという放送機構と、テレヴィジョンという受像機そのもの)が惹起するマスコミ、マスプロに、アメリカ的なるものを象徴化し、その「しらじらしさ」を積極的に評価してきた。東野の映像への態度は、その著書『アメリカ 虚像培養国誌』(美術出版社、1968年)というタイトルからも伺えることだが、なによりも表紙デザインが、テレビに映るウォーホル(東野が撮影)を、横尾忠則が着色したデザインであることによってより明確に示されているだろう。しかし、60年代後半のアメリカは、冷戦化の覇権国家として、全世界的に無批判に複製すべき対象では無くなっていく。
70年代に向かう時代背景と技術革新は、ソニー製の「ポータパック」を開発し、虚像性を飽和させて一方通行に陥ったテレビ環境を更新する目的で、私的な映像によるビデオ・アートを出現させる。ここで日本においてアメリカ美術の移入に傾注してきた美術批評家が、アクチュアルな思考の転換の手段を、新たなメディア技術の実践に求めた状況は興味深い(ゲリラ・テレビジョンという思考自体は、もちろんアメリカのものでもあるのだが……)。
本DVDから私が実感したことは、肥大化したアメリカをテレビに象徴化し、その抵抗手段のフレームワークをビデオに設定したということだ。ビデオは、映画館ではなく自宅のテレビ受像機で個人が見る映像であり、だからこそ私的な“綻び”が表出可能なメディアとなる。既存の映像環境に対する「反環境」(マクルーハン)の提示とともに、それは批評的なメディア論として、次なる思考の展開(新たなリテラシーの確立)を、ビデオによる新たなコミュニケーションとして促す(80年代の谷川俊太郎と寺山修司によるビデオ・レターを想起しよう)。こうした映像は、いわゆる芸術作品として制度に回収される前の“なにか”であることにおいて価値があった。
いま必要なことは、ビデオ・アートをめぐる歴史と社会と芸術の接点を探るための、議論と鑑賞のプラットフォームである。そして、映像が惹起したポストメディウム的な状況におけるアーカイブの確立は、現在のYouTubeやUstreamといった私的であると同時にマスでもありサブカルですらある水平的な映像環境と、かつてビデオ・アートが意図した“綻びた”映像の意義をめぐる比較検証から始まるだろう。作品、アーカイブ、情報技術をめぐる議論がより具体的に必要とされているのだ。
※本DVDは学校や図書館等で教育目的に使用するライブラリー版のみの販売で、一般発売はありません。
http://www.amky.org/japanese/title/VITALSIGNALS.html
関連イヴェント
Vital Signalsヴァイタル・シグナル:日米初期ビデオアート上映会 ‐芸術とテクノロジーの可能性‐
【日時】2010年9月11日(土)、12日(日) 両日とも11時、13時、15時から開始
【会場】国立国際美術館地下1階講堂
【その他】入場無料・全席自由/先着130名(午前10時から整理券を配布します)
http://www.nmao.go.jp/