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映画『ブロンド少女は過激に美しく/Singularidades de uma Rapariga Loura』

カテゴリ
o-cha-no-ma CINEMA
公開
2010/09/14   20:39
更新
2010/09/15   13:21
ソース
intoxicate vol.87 (2010年8月20日発行)
テキスト
text:樋口泰人(boid)

映画の果て、人生のど真ん中

「妻にも友にも言えないような話は、見知らぬ人に話すべし」。そんなフレーズが映画の冒頭に現われる。その言葉に導かれるように列車に乗り込んだ男が、隣の席の見知らぬ女に自分の過去を語り始めるのだが、一方で本作撮影中に百歳を迎えたという監督マノエル・デ・オリヴェイラは、「過去を撮ることはその時間に遡らずしては不可能だ」と語る。では一体どうやってこの映画は過去を撮ろうとするのかというと、おそらくそのためなのだろう、若き日の主人公とブロンド娘との物語を映画が語り始めてもなお、主人公の現在時制の列車の走行音は鳴り止まないのである。

一体こんなことがかつて映画の中で起こっただろうか? だって、過去のエピソードを見ている時にそこには絶対あるはずもない現在の列車の音が鳴り続けるんですよ、いくら何でもそれはないでしょう。なぁんて文句のひとつも言ってみたくなるくらい、事態はあっけらかんと展開してくのである。つまりおそらく同じシナリオで世界中の映画監督たちがこの映画を撮ったとしても、このように語ることが出来るのはオリヴェイラただひとり。それはオリジナリティの問題ではなくて、映画というメディアの広がりの問題として、圧倒的な最先端。過去から未来までを一気に見晴らす視界を、私たちは列車の音ひとつで一瞬にして獲得してしまうのである。

だがもちろんこの映画はそんな大それた事態などなかったかのように、増々あっけらかんと物語を語り続けるわけだから、つきあわされる方はたまったものではない。たとえば彼の隣にいたのが男性だったとしたら、果たして彼はこのような過去を話しただろうか? なんて疑問が頭をよぎったらもうおしまい。男の過去のエピソードのそれぞれがすべて作り話に見えてくる。

しかしそれらがひとつにつながったとき、かつて一度も語られたことのない恐ろしくも不細工な感触が広がるのである。つまり単なるでたらめにしてはひとつひとつのエピソードの細部がリアルすぎるし、作り話にしては全体の構造が不安定すぎる。一体これは何なのか? それに限りなく近いのはただひとつ。まさに全体が見えぬまま目の前のことに必死に取り組んでいるうちにひとつの人生を作り上げてしまう、私たちのリアルな人生そのもの。そんなフィクションの果てとリアルのど真ん中が限りなく接近した何かが、そこに突如として出現するのである。そこでは全体は見えず謎と神秘に囲まれて、しかも答えはない。その先の死なのか永遠なのかに向かって必死に生きるしかない私たちの人生の爆走音が、あの列車の音でもあるのだろう。そんな永遠と現在の音の共鳴、映画と人生との共鳴が、この映画からは聞こえてくる。そして増々私たちの混乱は深まるばかり。その酩酊感こそ、映画を見る喜びであるだろう。

 

映画『ブロンド少女は過激に美しく』
監督:マノエル・デ・オリヴェイラ  音楽:ハープ演奏(ドビュッシー《アラベスク》)アナ=パウラ・ミランダ 出演:リカルド・トレパ/カタリナ・ヴァレンシュタイン/ディオゴ・ドリア/ジュリア・ブイゼル/レオノール・シルヴェイラ他  配給:フランス映画社 (2009年ポルトガル・フランス・スペイン 64分)
◎9月、TOHO シネマズ シャンテほか全国順次ロードショー!
©FILMES DO TEJO II、KES FILMS DE L'APRES-MIDI、EDDIE SAETA SA、2009
www.bowjapan.com

併映短編
映画『シャルロットとジュール』
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール 音楽:ピエール・モンシニー 出演:ジャン=ポール・ベルモ ンド/アンヌ・コレット/ジェラール・ブラン (1958年 フランス 14分)