80年代の幕開けと同時に、ヤング・アイドルたちに彩られていった邦楽ヒット・チャート。楽曲の世界観と共に作り上げられたキャラクターは、憧れやピュアな恋愛感情を託すティーンエイジャーたちによって崇められていたわけだが、ファンの気質はいま以上にピュアで、それゆえに狂信的ですらあった。しかし、そういったアイドルの存在意義やファンの意識は、80年代半ばに差し掛かる頃からさまざまなトピックがきっかけとなって変わりはじめていた。スーパー・アイドルとしてシーンの最先端に君臨していた松田聖子の結婚~活動休止、あえて素人感覚を打ち出すことでアイドル=崇高な存在というこれまでの概念を打ち破ったおニャン子クラブのブレイク、アイドルの本音をカミングアウトした小泉今日子“なんてったってアイドル”のヒット、そして86年4月8日の痛ましい事件——人気絶頂のアイドル、岡田有希子がみずから命を絶った〈その時〉、幻想は確実に終わりを告げたのだった。
岡田有希子がデビューした84年は、その後のシーンを大いに盛り上げるニューフェイスが豊作の年だった。菊池桃子、荻野目洋子、長山洋子、吉川晃司——前年にデビューしたチェッカーズがブレイクしたのもこの年。まさにアイドル戦国時代であり、並みいる新人のなかで頭ひとつ抜け出すには、キャラクターだけではなくサウンドのコンセプトもこれまで以上に重要なカギになっていた。そんななか、〈ステキの国からやってきたリトル・プリンセス〉のキャッチフレーズでデビューした岡田有希子をサポートしたのは、シンガー・ソングライターとして再始動したばかりだった竹内まりや。デビュー曲“ファースト・デイト”、続く“リトル プリンセス”“恋はじめまして”——純真で可愛らしく、知的で真摯な少女像を浮かべさせる詞世界と、奥ゆかしく表情豊かなメロディーラインは、岡田有希子というキャラクターと最良の相性を見せた。同年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した彼女は、TVドラマやCMなどにも活躍の場を広げ、作品もコンスタントに発表。お茶の間での認知度とは裏腹に代表作となる楽曲をなかなか手に入れることができなかったが、86年1月のシングル“くちびるNetwork”が自身初のオリコン・チャート1位を記録する。本人も胸を躍らせていた……はずだったのだが、その矢先にあの悲劇が起こったのだった。
ウェルテル効果(報道に感化されて自殺者が増えること)まで引き起こした日本芸能史上に残る悲しい事件。笑顔の裏側に隠されていた苦悩や脆さを垣間見てしまった時、アイドルはもはや〈偶像〉としての役目を終えたのである。
岡田有希子のその時々
岡田有希子 『岡田有希子BOX ~贈り物III~』 ポニーキャニオン
デビュー当時はやや時代遅れ感がなきにしもあらずなお姫様イメージだったけど、そんな彼女がハイセンスなアイドルとして人気を得ていたのは、デビューからのシングル3部作を手掛けた竹内まりやをはじめ、尾崎亜美、松任谷正隆、財津和夫、EPO、大貫妙子など錚々たる作家陣による楽曲でそのキャラクターに豊かさを与えられていたことが大きい。ムーンライダーズのかしぶち哲郎がプロデュースしたラスト・アルバム『ヴィーナス誕生』ではプリンセスから女神へと華麗に変貌を遂げていただけに……。
菊池桃子 『スペシャル・セレクション 1』 バップ
デビュー時のキャッチフレーズは〈Real Fresh 1000%〉。アイドル誌「momoco」の創刊や映画「パンツの穴」主演という序奏を経ての歌手デビューは、杉山清貴&オメガトライブと同じスタッフによる都会的かつリゾート感溢れるサウンドでトレンドをキャッチした。ユッコよりひと足先にブレイクした同期のライヴァル。
荻野目洋子 『ゴールデン☆ベスト荻野目洋子』 ビクター
続いて同じ84年デビュー組。ユッコとは堀越学園の先輩後輩で、プライヴェートでの交流も深かった。85年暮れにヒットさせた“ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)”以降、アイドル・ポップにもダンス・ナンバーが軒並み増えていったが、ユッコもいずれ軽やかなステップを踏んでいたのだろうか……。
長山洋子 『CD FILE VOL.2』 ビクター
言わずもがな現在は演歌界のヴィーナス。ユッコとは堀越の同級生で、荻野目ちゃんと同様、ダンス・ビートを手にすることによってブレイクした、こちらも84年組。〈望みが風のように/消えたから〉──ユッコが亡くなった翌月にリリースされた“雲にのりたい”は、当時やたら切なく聴こえた記憶があります。