モダン・ジャズの制約に対してフリー・ジャズが提唱され、ロックの重厚長大化に対してパンクがムーヴメント化し、R&Bのメインストリーム化に対してネオ・ソウルが勃興してきたように、ある頃までのポピュラー音楽の歴史書は、カウンターに対するカウンターの繰り返しでページを更新してきたように思う。それに準えれば、90年代に槇原敬之や平松愛理、広瀬香美、あるいは復権した小田和正のようなシンガー・ソングライターたちが台頭したのは、80年代末に巻き起こった玉石混淆なバンド・ブームの狂騒へのカウンターだったのだろう。そして、その動きに先鞭をつけたのがKANだった。時代の変わり目に登場した“愛は勝つ”が、当時としても破格の200万枚というセールスで世間に届いた〈その時〉、日本における90年代ポップスの幕が切って落とされたのだった。
幼少時からクラシックピアノを学んできたKANは、ビリー・ジョエルやポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダーらの作風に大きく影響を受け、学生時代から自作の曲とアレンジにこだわってソングクラフトの技量を磨き上げてきた。なかでもビリー・ジョエルの技法には同じピアノマンとしてより強くインスパイアされたのだろう。87年のデビュー曲“テレビの中に”は(本人も認めるように)ビリーの“Easy Money”を狙った軽快なロックンロール・ナンバーに仕上がっていた。同時リリースした同名ファースト・アルバムにはアマチュア時代の楽曲も収録。現在にまで至るウェルメイドなポップ職人としての横顔がその時点で確立されていたこともいまならよくわかる。しかしながら、バンド・ブームの直中にその誠実なポップネスが世間に顧みられることはなかったのだ。
そんななか、90年にリリースされた5枚目のアルバム『野球選手が夢だった。』からリカットされた“愛は勝つ”が先述のように大ヒットを記録。“Uptown Girl”を意識したアレンジに乗せ、まるでその後にやってくる何かを予見するかのように〈し~んぱいないからね~♪〉と歌うその曲が備えていたポピュラリティーは、KANの音楽性の本質を世に届けるものだった。反面、その異常なヒット規模のせいで彼を〈一発屋〉視している人も多いかもしれないが、以降もKANの音世界はコンスタントなアルバム・リリースを通じて頑固でポップな試行錯誤を続けていくことになる。このたびリイシューされた12枚のアルバムでもその軌跡は確認できるだろう。
13作目『Gleam & Squeeze』発表後の2002年、音楽学校でクラシックピアノを学ぶべくパリに移住した彼だが、数年後に帰国するとふたたび活動を本格化。以前から今井美樹の“雨にキッスの花束を”などで発揮していたソングライターとしての才を平井堅やSMAP、真野恵里菜らの作品で披露しながら、マイペースに活動を継続している。
KANのその時々
KAN 『TOKYOMAN』 ポリドール/zetima(1993)
ブレイクから数年後、より思うがままに自己の表現を突き詰めていった時期の傑作(6作目)。地方出身者の視点から〈東京〉を描いてきた彼だが、ここでは訪欧を経て外から見た〈TOKYO〉観が反映されている。甘酸っぱいバラード“まゆみ”や、冗談めかした本気のブラコン“孔雀”など逸曲だらけ!
KAN 『SONGS OUT OF BOUNDS』 zetima
今回のリイシューに合わせて編まれた編集盤で、シングルのカップリングなどアルバム未収録の音源をまとめた親切な内容。初期ビートルズ風のビート・ナンバー“練馬美人”を筆頭に、毎度のビリー・ジョエルやスティーリー・ダンらのユーモラスなオマージュが次々に飛び出す作りが楽しい。
横山知枝/やまだかつてないWINK 『MyこれLite!』 ポニーキャニオン
KANのブレイクを促した「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」から発生したユニット、やまだかつてないWINKの“さよならだけどさよならじゃない”(91年)もKANの書いたヒットのひとつ。メンバーだった横山知枝もソロで歌い直した、どことなく厳かなムードの名曲です。
真野恵里菜 『FRIENDS』 hachama(2009)
ハロプロ作品では後藤真希とのマッチングも忘れ難いKANだが、ピアノも弾く彼女との相性はまさに抜群。デビュー曲の“マノピアノ”や“ラララ-ソソソ”“はじめての経験”など6曲連続で書き下ろされた最高のシングル群はこのアルバムですべて確認できる。最近の凡庸なシフトチェンジはつくづく無念……。