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映画『ゴダール・ソシアリスム/FILM SOCIALISME』

カテゴリ
o-cha-no-ma CINEMA
公開
2010/12/17   15:50
更新
2010/12/17   16:31
ソース
intoxicate vol.89 (2010年12月20日発行)
テキスト
text:樋口泰人(boid)

(c)フランス映画社

今年80歳を迎えたジャン=リュック・ゴダール監督の最新作!

スクリーンの後ろには3つのスピーカーがある。映画の音声形式がモノラルの場合は真ん中のスピーカーのみ使い、あるいは3つのスピーカーから同じ音を出す。ステレオの場合は左右のスピーカーを使い、5.1チャンネルの場合、台詞などがセンターのスピーカー、左右は環境音や音楽などといった振り分けがされる。映画の音は一体誰の欲望なのかとにかくよりリアルな臨場感を求めてモノラルからステレオ、そして5.1チャンネルへと進化してきたわけだが、本作『ゴダール・ソシアリズム』はそれらの欲望のすべてを灰燼に帰す。

リアルっていったいなんなんだよ!

みたいな感じだろうか。ここに音がある、それらが勝手にスピーカーから出てくる。必要なのはそれだけ。あまりに乱暴すぎる音作りにも聞こえるが、しかしこれがあまりに繊細にモノラルとステレオを使いわけ、しかも3つのスピーカーも使い分け、当たり前のように映像とも語られている内容ともシンクロせずにすべての音が唐突に目の前に現れる。どうしてここまでやる必要があるのかと考える間もなく次々に音は現れるものだから、こちらはひたすら唖然としながら事の成り行きを見守るしかないのだが、たとえば3つのスピーカーのそれぞれから別々の音がそれぞれ無関係に出てきたり、片側からのみあるいは真ん中のみから出てきたりして事態はますます混迷を深めるわけである。

いや、その混迷が問題なのではない。「誰の欲望」なのかが問題である。リアルな臨場感を求めているのはいったい誰なのか? 資本主義市場経済はその「誰」を一般大衆の上に投影して自らを形作ってきたわけだが、そんなものはクソであるとこの映画の音は告げている。一見自由であるかに見える市場経済は、常にそのあり得ない「誰か」を巡って動いているに過ぎないわけでそこに自由があるはずもない。3つのスピーカーを「誰か」の想定通りに使わなければならない理由はどこにもないのである。

とはいえではどのように使うのか? それもまた問題である。いやそれはある意味非常に単純、音に任せればよい。そこにどのような音があるのか、あるいはないとしたらその沈黙は何なのか、いや、沈黙にも音があるのではないか、などなど思いをめぐらしつつも、常に耳を澄ます。つまり「聴く」ことによってそこに現れ出てきた音を、映画は伝える。映画はメディアであり通路である。そしてそれを見る私たちをも通路に変える。何かが自由に私たちの身体の中を行き来する。無理矢理に唐突にそしてあっけらかんと、それらは私たちの身体を貫き通し、歴史の深みからやって来て宇宙の果てへと飛び去って行く。

つまり私たちの身体にはそれらが通過した傷跡が残り、そこから何かが身体の中へと染み込んで行く。宇宙の記憶と言ったらいいか。それらが観客たちに共有されるわけだ。それこそソシアリズムであり、映画を見ることである。見ることは傷つくことだ。

『ゴダール・ソシアリスム』

監督:ジャン=リュック・ゴダール
配給:フランス映画社(2010年 スイス・フランス)
◎12/18(土)より、日比谷 TOHOシネマズ シャンテにて公開、全国順次
http://www.bowjapan.com/
(c)フランス映画社