時は60年代末期。日本の音楽シーンは大きな変革期に突入していました。海外の潮流に呼応しながら純粋に音楽性を追求していこうとするアーティストたち――〈ニュー・ロック〉と呼ばれていた一群や、60年代中期から関西を中心に着々と根を広げていった〈アングラ・フォーク〉のシンガーたちが、それまで隆盛を極めていたグループ・サウンズの芸能界的体質に反旗を翻すような形で台頭しはじめたのです。そんななか、69年2月には、岡林信康や高田渡らを擁していた高石事務所が日本初のインディー・レーベルであるURCを発足し、同年4月には通信教育による作詞・作曲講座を行っていた出版社のエレックが音楽レーベルをスタートさせます。両者はそれぞれ出自が異なり、エレックはそもそも会員の優秀作をレコード化するために立ち上げられましたが、フォーク界のプリンスとなるよしだたくろう(現・吉田拓郎)を見い出した〈その時〉から、URCと共にジャパニーズ・フォークの中核として一時代を築く独立レーベルとしてその名を知らしめていくことになるのです。
当時、全国に数多くあったとされるアマチュア・ミュージシャンによるフォーク・コミューン。なかでも抜きん出た存在だったのが広島フォーク村でした。村民たちによるオムニバス・アルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』のリリースをきっかけに、村の中心人物だったたくろうと接触したエレックは、70年に彼のデビュー・シングル『イメージの詩/マーク・』を発表。その後、泉谷しげるや古井戸、佐藤公彦(ケメ)、海援隊など人気フォーク・アーティストを輩出し、大手レコード会社顔負けの躍進を遂げていきます。設立当初はフォーク系のカラーが強かったものの、フォーク・ブームが沈滞していくなかでジャンルを拡大。ずうとるび、まりちゃんズ、生田敬太郎、丸山圭子、シュガー・ベイブなどなど、ニューミュージックや歌謡ポップス、コミック・ソングにまで至る多彩なラインナップを揃え、愛、KIVA、ナイアガラなどのレーベル内レーベルも設立していきました。しかしその一方で、たくろうをはじめ発足当初のアーティストが次々に移籍。76年にはその短い歴史を終わらせることになるのです。
エレックというレーベルの個性は、メッセージ性や芸術性を色濃く出していたURCや都会的なサウンドを打ち出した後発のベルウッドとはひと味違い、覚えやすく、歌いやすく、親しみやすいものでした。すべてのレコードにコード譜を付けていたことでギター・ファンにも喜ばれていたその作品群は、特大ヒットこそなかったものの、スマッシュヒットをコンスタントに送り出し、若者のバイブルとして時代のなかで輝きを放っていたのです。
エレックのその時々
よしだたくろう 『人間なんて』 エレック/フォーライフ(1971)
エレック、というより日本フォーク界の看板アーティスト。本作収録の“結婚しようよ”は大ヒット・シングルであったと同時に、フォークのスタンスを否定するものだと論争にもなったいわく付きの曲だ。フォーク界のシンボルでありながら、その音楽性/精神性を規格外にまで拡大していくなか、72年にはエレックを離れることに。
泉谷しげる 『泉谷しげる ゴールデン☆ベスト~エレック・セレクション~』 ポニーキャニオン
初作となったライヴ・アルバム『泉谷しげる登場』のようなラフもラフなスタイルが持ち味かと思いきや、2作目『春夏秋冬』以降のアルバムでは加藤和彦や高中正義、つのだひろ、イエローなど名うてのプレイヤーたちを迎えた作品を発表したりも。音楽的な偏差値の高さでも唸らせたラディカル・スター。
『唄の市 ゴールデン☆ベスト~エレック・セレクション~』 ポニーキャニオン
ここに参加したことでデビュー前から人気を集めたアーティストも少なくはない、エレックが全国規模で開催していたコンサート〈唄の市〉。たくろう、泉谷、古井戸をはじめ、なぎらけんいちや佐藤公彦などのユニークさがより楽しめるのはライヴならでは。そして、海援隊“母に捧げるバラード”はもやはりライヴが格別。
『エレック ゴールデン☆ベスト~レディースセレクション~』 ポニーキャニオン
右で記述した通り、レーベル内レーベルも立ち上げ、アーティストのテイストも多岐に展開したエレック。なかでも本作は女性シンガーばかりを集め、フェロモン充満のグラム歌謡・杉本エマの“好き”や、キノコホテルもカヴァーしたエキゾなブルース・ロックのエルザ“山猫の唄”など目から鱗な逸品のあれやこれやが!