なぜジョニ・ミッチェルなのか
ジョニ・ミッチェルを敬愛する音楽家は枚挙にいとまがない。プリンス、ジャネット・ジャクソンからマドンナ、モリッシー、ビヨーク、ソニック・ユース等々、愛好家はジャンルを問わないが、ハービー・ハンコック、キース・ジャレットを筆頭に多くのジャズ・ミュージシャンから多大なリスペクトを集め、多くの曲がカヴァーされているのはひとつの大きな特徴といえるのかもしれない。
ざっくりと概観するなら、CSN&Yやジェームス・テイラー周辺のフォーク・ロックシーンから出て(デビュー・アルバムから『ブルー』まで)、LAエキスプレスなどのジャズ/フュージョン系の音楽家と交流し(『コート・アンド・スパーク』、『Miles of Ailes』など)、その後ウェイン・ショーター、ジャコ・パストリアス、ミンガスといった、より〈ジャズ〉な人脈に深入りする(『ミンガス』『逃避行』など)、というのが80年代までの彼女の軌跡だった。この間の経緯をザ・バンドのロビー・ロバートソンは、「キャリアを経るに従って、彼女の音楽においてベース/ベーシストが果たす役割はどんどん大きくなっていった」と語っている(言われてみればかつての夫、ラリー・クラインもやはりベーシストだった)。
ジョニといえば、とかくそのメロディの不可思議、あるいは50種類もあるといわれるチューニングからもたらされるコード感覚の神秘が取りざたされるが、それらの魔力を文学臭の強いフォークの文脈から解き放ち、より広大な音楽世界を獲得するために天才的なベーシストが必要だったのだとしたら、ジャコとの邂逅は必然だったのだろう。そしてその邂逅が、キャリアの頂点に位置する『ドンファンのじゃじゃ馬娘』『逃避行』『ミンガス』『光と影』などを生み出すこととなる。
ジョニ・ミッチェルはここでジャズ・ミュージシャンたちとともに、どんなジャズにも似ていない未知のジャズを生み出した。その名づけ得ぬ音楽性こそが、多くのジャズ・ミュージシャンをして彼女をリスペクトせしめるところに違いないが、しかし、それは〈孤高〉の名にふさわしい研ぎ澄まされた音楽だ。ストイックで厳しい。毎日聴くにはちょっとしんどい。なので、個人的には、そこに到達する直前、イマジネーションが奔流のごとく流れ出し、破綻寸前にまで飛躍する『夏草の誘い』が一番面白い。プリンスのフェイバリットにして、【ノンサッチ】からリリースされたトリビュート盤でビヨークが取り上げた曲が収録されているのがこれだ。ベースも結構ぶいぶいしているし。