久しぶりに〈本のすこし〉
机にならんだ5冊の本。まず手にとるのは、やはりこれ、『谷啓 笑いのツボ 人生のツボ』(小学館)か。
惜しくも昨2010年9月に亡くなった谷啓。その素顔が演出家・放送作家の喰始との雑談で浮かびあがる。他愛もない、雑談ゆえにリラックスした、まともそうでまともでない、かなりの〈変人〉ぶり。笑い、ギャグについて知りたい、あるいは、何をどうすると可笑しくなるか、教えられることは多々。加えて、戦争が終わってジャズに出会ったときの衝撃、ミュージシャンでありつつコメディアンというスタンスについてなど、ちょっと大袈裟だけど、歴史的な証言も。晩年の『美の壷』のご隠居さんしか知らないひとは、本書を読めば、6-70年代谷啓がきっと気になり、クレイジーキャッツの映像を見たくなる。
南博は谷啓の子の世代。ピアノを学んでいた青年が出会うのはキース・ジャレットだったと『白鍵と黒鍵の間に』(小学館)で記されていた。そこでは音大卒業後、バブル期の銀座のクラブを掛け持ちしてピアノを弾いた時代が、つづく『鍵盤上のU.S.A.』(小学館)では留学した合衆国のことどもが活写されていた。そして、3冊目、『マイ・フーリッシュ・ハート』(扶桑社)は帰国してから現在へ。エピソードはもちろんおもしろい。だが、合間合間にこのピアニストが感得したもの、音楽の実感があらわれる。それは本人以外にはわからないものかもしれない。でも、このピアニストの音を知っているものにとっては腑に落ちる体験であり語りなのだ。そして、「それ」を語るのは、音楽そのものの外、音楽家にしてからがことばによらなくてはならない、というジレンマがある。さらにもうひとつ。南博は、この列島に生まれ育ったものがジャズをやることへの問いが、前著からつづいて、ある。問いは、ことばによる思考と併行して、音楽の実践によってもなさざるをえない。だからこそ、このピアニストから目がはなせないのだが。
『アヴァンギャルド・ジャズ』(未知谷)は、横井一江の力作。本書に注目すべきはその丁寧な書き方だ。一愛好家と変わらぬ提灯持ちのような紹介文でも、自分に関心のある対象のみを掘り下げるばかりというのでも、ない。近代西洋音楽を、ジャズの発生と変化を踏まえながら、それからあと、現在の「ジャズ」と呼ばれる音楽のなかにあって、因襲的ではない、何らかのかたちでそこから一歩でも二歩でも先にいこうとするミュージシャンをみようとする。中心となるのはヨーロッパ。合衆国ではなく、ヨーロッパ。ある意味では、先の南博がジャズをやることと無縁ではない。そうした地理/歴史/文化的な視点も忘れず、自らおこなったミュージシャンへのインタヴューをも織りこみ、整理する。もちろん「アヴァンギャルド・ジャズ」の「全体」などないし、誰にも描けはしない。しかし、「全体」を垣間みさせる、幻視させる何かがここにはある。
以上3冊は「ジャズ」とのつながりを持っているが、ジャズのみならず、ミンストレル・ショウからブルース、カントリー、R&B、ヒップホップ等々、アメリカ合衆国におけるさまざまな音楽を歴史のなかで捉える、いや、捉えかえそうとするのが大和田俊之『アメリカ音楽史』(講談社)。単純な時系列ではない。「ジャンル」ごと、しかしそんな縦割りなど表向きでしかないことを充分に意識しながら、だ。その意味で、「歴史」は政治、社会、文化はもちろん、メディアや人種、ジェンダーも射程にいれた、ひじょうに複合的なものとなる。中心になるのはそのものずばり「合衆国」。それでいながら、目の隅には中南米やカナダがはいっており、「合衆国」はにじみだし、同時に「アメリカス」性こそが扱われている。
最後までとっておいたのはオリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』(音楽之友社)。自分のことに興味などないと喝破するピアニストに密着、世界初の伝記となる。本書にアルゲリッチの音楽性を云々したり、どこがどう素晴らしい、その演奏法がどうのとの分析などはない。あるのは破天荒な女性ピアニストの生身の姿であり、周囲の人びとの反応だ。かといって、エピソードの時系列的な列挙にとどまることなく、語り口やレトリック、構成の巧みさが読み手を引っ張ってゆく。もちろんアルゲリッチだからではあるが、演奏家の伝記としてめっぽうおもしろいものといえるだろう。存命中の人物については、本人との接触が大きな位置を占めるが、『谷啓』のような対話とはまた異なったふくらみが本書にはこめられている。