キセルの兄弟船がどんぶらこどんぶらこと流れた12年を辿る
間もなくリリースされる、スピードスター時代にリリースされたシングルのカップリング曲に、ビートルズやはっぴいえんど、デヴィッド・ボウイ、細野晴臣のトリビュート盤をはじめこれまでに参加してきたコンピ作品へ提供したナンバー、そしてライヴ会場限定CDで発表したものなど、オリジナル・アルバムに未収録の楽曲をまとめた3枚組レア・トラック集『SUKIMA MUSICS』。これを聴けば、デビュー以来キセルがまったくブレることなく淡々と、なのに恐ろしく濃密に進化してきたことに気付かされるだろう。結成当初はまだ10代だった弟・辻村友晴はいつの間にかベースはもちろんミュージック・ソウ(ノコギリ)も弾きこなすに至り、兄・豪文は数々のアーティストの作品への参加やライヴでのサポート、楽曲提供などをするようになるまでに成長した。ここでは、そんな2人の12年をみずから振り返ってもらったインタヴューと、時代ごとに印象に残っているエピソードや転機となった出来事を語ってもらった。
最初からブレてると言えばブレてる?
——そもそも結成のきっかけは友晴くんが大学受験に失敗したことだったそうですね。
辻村豪文(ヴォーカル/ギター)「そうです(笑)。それまで僕は大学のサークル(立命館大学の〈ロック・コミューン〉)でバンドをやったりしていたんですけど、弟が高校でギターを始めて自分でも曲を書いたりしてたんで、それならいっそいっしょにやろうかな、と思って」
辻村友晴(ベース/ヴォーカル)「僕は大学落ちてもあんまり落ち込まなかったんです。兄さんに〈いっしょに音楽やろう〉って誘われて、高校卒業して音楽っていう次の目標があったからなのか、ただほんま何も考えていなかったのか(笑)。友達に〈音楽やってくわ〉って言うと、呆れられましたけど(笑)」
豪文「僕は最初、正直言って弟が音楽を始めた時は〈カブるからイヤやな〜〉って思ってたんです(笑)。学年では5つ離れてるんですけど、声とかは似てるじゃないですか。しかも、僕は中学の頃メタルとかを聴いてたのに、弟はいきなりサニーデイ・サービス聴いて石野卓球さんのイヴェントで朝まで踊って……みたいな趣味だったし(笑)」
友晴「でも、はっぴいえんどとかを聴くようになったのは兄さんの影響で」
豪文「チェインズとか、サークルの先輩バンドがそういう感じでオリジナルをやってたり、くるりとか他の同期のバンドも、日本語で自分で曲書いてっていうのがほとんどで。あと吉田寮の食堂ライヴとか、やっぱり当時の京都のシーンからの影響は大きかったと思います」
——では、最初のヴィジョンというのはとにかく〈日本語の音楽〉ということだったと。
豪文「そうです。でも、だからって弟とあまり具体的な話はしませんでした。ただ、99年の春に京都のラジオ局主催のイヴェントにキセルとして最初に出た時は、カセットのMTRを使って音を作って、2人のコーラスを入れて……みたいなスタイルでやっていましたね。当時ははっぴいえんどみたいな日本の音楽も、(シカゴ)音響系のようなのも好きだったし、他にもいろいろなのを聴いてましたけど、漠然と〈音響歌もの〉みたいなのを考えていました。でもメジャーに行って最初に録ったアルバム『夢』が自分で考えてた枠みたいなものより全然広がりがあって。弟が宅録を始めて存在感が増した感じで。その時初めて〈キセルってこういう感じかな〉って思った気がします。エンジニアをやってもらったのがウッチーさん(内田直之)っていうのも大きいと思います」
——最初から柔軟であるという点においてブレていない。
豪文「まあ、最初からブレてると言えばブレてるような(笑)。キセルの看板はあるけど何やってもいいんやっていう気持ちがいまもありますね」
——メロディーだけ取り出せば美しくて綺麗なのに、キセルの場合はわざと音を汚すような感覚でゴツゴツとした音処理にしている。これはなぜなのでしょう?
豪文「メロディーそのものをストレートに聴かせることに照れがあるというのが大きいです。写真で言えば、白黒とかセピア処理にする、みたいな感じですよね。でも、例えば蓄音機の音を聴いて〈懐かしいなあ〉と誰もが思うように、その音の空気感みたいなものを最初からすごく意識はしていましたね。場合によってはスタジオでちゃんと録った音より、ラジカセで録った音のほうがいいなといまでも思いますから」
人と人との交流が成長させてくれた
——音楽的に参照した作品やアーティストはありますか? 例えば、ベックのインディー時代の作品に近い感触があるなと当時から思っていたんだけど。
豪文「ああ、ローファイっぽい音楽は聴いてましたね。あと、チャド・ブレイクの仕事、ロス・ロボスとかスザンヌ・ヴェガの作品の、あのヘンな音処理は好きでした」
友晴「でも、僕は特にそうだったと思うんですが、メジャー・デビューしてからもアレンジ力や技術よりもそういうローファイな音や雰囲気ばかりにこだわりすぎてたせいで、スタジオに入っても作業が行き詰まったりして。いま思えば本当にもったいなかった」
——ただ、アナログ感があって雰囲気もノスタルジックで、高田渡やはっぴいえんどのカヴァーもやるのに、不思議と近未来っぽさもある。言わば手塚治虫が描いていた未来宇宙の音版、みたいな。なぜこうした指向になったのだと思います?
豪文「う〜ん……正直よくわからないですね。でも、僕らが生まれ育った環境も影響してるのかなあ。子供の頃の実家が京都市の端の向島ニュータウンっていうバリバリに新しい巨大な団地やったんですよ。みんな同じ間取りで。公園や川もあるけど人工だし用水路だし。11階建てのエレベーターを駆使して〈どろじゅん〉(一部地域では〈ドロケイ〉とも呼ばれる鬼ごっこの一種)やったりして遊んでました(笑)。微妙にSF感があったと思います。そういう感覚がもしかすると歌詞とかに反映されているのかもしれないです。子供の時の記憶のほうが鮮烈に覚えてたりしますもんね。あと、反戦/反核の絵本とか映画を物心付く頃にトラウマになるくらい観せられたりしていたので、(高田)渡さんの“鮪に鰯”みたいな曲をカヴァーしてるのかもしれないです」
——ただ、そういう感覚がキセルの魅力としてよりわかりやすく伝わるようになったのは、メジャー・レーベルを離れてライヴをたくさんするようになってからだと思うんですよ。つまり、KAKUBARHYTHMと契約するまでの時期の努力が、それ以前の作品にも新たな息吹を吹き込んだような感じがするんです。
友晴「そうかもしれないです。本当にたくさんライヴをやって、物販に立って自分でCDを売るってことが大きな経験になって……。曲を作る時も、ライヴでやるということを考えるようになったし、人と人との繋がりみたいなものが大切やってことを改めて感じたりしましたからね」
豪文「考えてみたら、もともと京都時代から僕らは大学時代の先輩バンドとか周囲にいた仲間のミュージシャンとかからの影響が強いんです。CD作品じゃなくて、直接のライヴとか交流みたいなところから影響を受けて成長するっていうか。それと同じことがスピードスターと契約が切れてから多くなったとは思います」
友晴「いまの自分たちがいるのも確実にそういう周囲の人たちのおかげなんですよ」
豪文「それと、最近の話ですけど、震災前の感覚って、結構思い出せないくらいいまの感覚と違うなって思うんです。僕らも社会もリセットされた感じがするし。今回の3枚組に1曲だけCM用に作った新曲が入ってるんですけど(“心と翼”)、この歌詞の1番は震災前に、2番以降は震災後に書きました。あたりまえやけどすごい悩んでしまったんですよね。こないだ仙台でライヴをやった時も感じたんですけど、昔からやってる曲でも歌詞の聴こえ方が結構違うなって思うんですよね。お客さんも言ってたし。どんな音楽でも場合によっては人が傷つくっていうあたりまえのことに改めて気付いたり。でもやりたいからやるっていうのが、変な言い方ですけど気持ち良かったり。結局自分らがやってきたこととやってることに責任を持って向き合うしかないなって思ったりもしてます。まあ、あと今後の夢としては、映画音楽を作ってみたいですね。これ、毎回話してますけど(笑)」
▼キセルの作品を紹介。
左から、2001年作『夢』、2002年作『近未来』、2004年作『窓に地球』、2005年作『旅』(すべてスピードスター)、2008年作『magic hour』、2010年作『凪』(共にKAKUBARHYTHM)
▼関連盤を紹介
左から、ロス・ロボスの92年作『Kiko』(Slash)、スザンヌ・ヴェガの92年作『99.9F°』(A&M)