豊麗な弦と華麗な管、端麗なテンポで流麗に歌う。時に勇麗、時に優麗。
オーマンディ・フィラデルフィア管のベートーヴェン交響曲全集はなぜCD化されていないのかと、あちこちでボヤいてきた。本誌連載コラムでも、タワーさん助けて、と書いた覚えがある。その願いが、やっとかなった。
半世紀前の1961年から5年間で収録。オーマンディがストコフスキーの後継者としてミネアポリス響から転じてシェフになって、30年を記念して68年にLPボックスになったこの全集は、CDでは不遇だった。国内は3、5、6、9番が出たが、廉価シリーズでの中だったのか、印象が薄い。アメリカCBSの廉価盤には7、8番もあって、両曲とも愛聴してきたが、9番は他の指揮者によるベートーヴェンの合唱曲も盛り合わせた、いかにもお座なりの2枚組みだった。1、2、4番は結局お蔵入りしたままだった。
それだけ人気薄だったのだ、とはいうまい。LP時代のアメリカでは愛聴されていたのだ。むしろいわゆるオーセンチック・スタイル流行の流れに呑まれた、というべきだろう。
録音された60年代前半は、第2次大戦終結から20年もたっていない、アメリカが最もパワフルで、ゴージャスだった時代だ。
そのパワフルのほうを、トスカニーニ、ライナー、セルが受け持ち、もっぱらカンシャク持ちのベートーヴェンをやっていた。ゴージャス派の代表が、オーマンディだ。豊麗な弦と華麗な管、端麗なテンポで流麗に歌う。曲が曲だから時に雄麗、時に優麗。〈麗〉の字をいくつ並べてもいい。オトナの芸だ。
ウソと思うなら『エロイカ』を聴くがいい。スコアの表紙を破った作曲家はいないが、ナポレオンがいる。『第九』のアダジオを聴くがいい。不愉快な俗事を忘れて安眠できる。
芸風的に向いている4、6、8番のよさはどうだ。根っ子はゴージャス志向なのに神経質に、勿体つけるカラヤンに辟易したウィーン・フィルが、定期やザルツブルグで、彼とベートーヴェンをやっていた理由がよくわかる。