創作するものが創作するものに対して抱く、なにものか
高橋悠治がカフカとかかわりのある作品をどのくらいつくっているのか、正確には知らない。サンプリングを多用したテープ作品があり、やるたびごとに変化してゆく演劇ともオペラともつかない作品がある。ほかにも、きっと、あるだろう。
『カフカ/夜の時間』は、1989年に晶文社から初版がでた。今回のみすず書房のものは、一見ほとんど変わりないのだが、一部だけ変えられている。『カフカノート』は、今年の4月、神楽坂のシアターイワトで演じられた同名の作品の「上演台本」とでも呼ぶべきもの。高橋悠治自身の文章がメイン、というよりは、選ばれたカフカのテクストと、「掠れ書き」という制作ノート、スコアが一緒になっている。カフカのテクストは、ドイツ語の原文と新しく高橋悠治自身が訳したものが併載されている。翻訳は、句読点や音数を原文に近づけるというやり方がとられていて、一種の新たなカフカ・アンソロジーとしても読める。
20年以上を隔ててならぶ高橋悠治のカフカ、といえばいいのかもしれないが、個人的には、何よりも、『カフカ/夜の時間』のはじめのところにおかれた「病気・カフカ・音楽」が何度となくおもいだされていた。それはわたしがまさに何日か病臥し(いまも微熱のあるなかで書いている)、その前にぱらぱらめくっていたせいもあったからでもあろうが、「健康がからだをおさえつけている。そのとき、病気はもう内側に食いこんでいる」「すこしよくなると、病気を忘れる。世界がしたしいものに見えてくる。だが、病気はいつでもそこにある」といった断片は、これまでにない身近なものとなっていた。
かならずしも病気、や、身体の不調のこととはかぎらないかもしれない。そのうえであらためておもいかえしてみる。高橋悠治が身体について、伝統的な楽器へのアプローチや、ピアノのはじめの頃の弾き方や、ありえなかった弾き方、といったことについて傾斜してきたのが、もしかしたらカフカをとおしてだったのではなかったか、と。確証はない。この二著をとおして、みえてくるのは、創作するものが創作するものに対して抱く、なにものか、容易にはわかりえない、なにものか、であるようにおもう。ある決定的な遠さ、がここにある。