涙を未来を光に——
閉鎖の力学に対抗する女性をクリスティン・スコット・トーマスが好演!
第2次世界大戦中のユダヤ人虐殺を題材とする多くの映画のなかでも、『サラの鍵』は近年特筆すべき作品である。1942年、ドイツによる占領後に成立したフランスのヴィシー政権が大量のユダヤ人を検挙し、死へと追いやった事件を扱う。フランスが自らの手を汚した形のこの事件は、ナチスへの抵抗運動=レジスタンスの末に自由なフランスが再建された……との「神話」を根底から覆しかねない歴史的汚点として戦後も長らくタブー視されてきた。祖父を大戦中に収容所で失ったユダヤ系フランス人が監督した『サラの鍵』は、ひとまず歴史上のタブーに挑む点で特筆すべき映画だが、そうした主題(内容)に切り込むアプローチ(形式)面でも注目に値する。
この映画は、第2次大戦中の悲劇と現代にまで及ぶその深刻な影響を〈閉鎖〉と〈開放〉の間での力学上の綱引き=闘争として描く点で徹底し、それが特筆すべき感動へと僕らを導く。冒頭、フランスの警察官らがアパートを襲い、家族全員を検挙する。ただ彼らがユダヤ人であるとの理由で……。その際、機転を利かした娘のサラは、すぐに迎えに戻るから……と幼い弟を納戸に隠すのだが、これ以降、サラのみならず僕らも、弟の運命が気にかかってならず、物語の半ばまでその答えを宙吊りにする演出が絶妙だ。残酷な閉鎖の力学の行使により、ユダヤ人は自由や財産を奪われ、屋内競輪場や収容所に閉じ込められる。弟を納戸に隠すサラの行動は閉鎖の力学への閉鎖による反撃と見なされるべきだが、結果的に弟は二重の閉鎖空間に放置されてしまう。自分のこと以上に、弟の安否を気遣い続けるサラ。邦題にある〈鍵〉は、中で弟が姉の帰りを待つはずの納戸のそれ指す。やがて収容所からの〈開放〉を実現させたサラが、今や別人の住居となった部屋の納戸を、肌身離さず持っていた鍵で開放するのだが……。
戦後になっても〈閉鎖〉と〈開放〉の綱引きは継続される。悲劇を生き延びながらも心に深い傷を負ったサバイバーは、精神的な苦痛に苛まれ、その記憶を自らの手で〈閉鎖〉することでしか生きられない。心的外傷がもたらす閉鎖の力学。かつて開放の力学に憑かれたサラが、戦後は自らを閉鎖状態に追いやるかのようなのだ。しかし、この閉鎖の力学に対抗する女性が再び現代において現れる。公的な歴史から抹消されたサラたちの悲劇が、その封印(閉鎖)を開放しようとする現代の女性ジャーナリストの行動につれて明らかになり、過去と現在の物語を巧みに交差させながら映画は進行するだろう。空間の開放に憑かれた女性ジャーナリストがまるでかつてのサラの分身に見えてくる。閉鎖空間に追い込まれた人々は開放を願い、しかし、その開放が再び閉鎖を招き寄せる……こうした悪循環に終止符を打つ手立てが僕らに残されているのか……。安易な答えが準備されるわけではないが、『サラの鍵』は、長いスパンで繰り広げられる閉鎖と開放の綱引き=闘争を介し、僕らも決して目を背けるわけにはいかない歴史上の悲劇を感動的に開放してみせるのだ。