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commmons: schola TV/schola vol.10 Ryuichi Sakamoto Selections: Film Music

カテゴリ
o-cha-no-ma LONG REVIEW
公開
2012/06/29   11:42
ソース
intoxicate vol.98(2012年6月20日発行号)
テキスト
text : 鈴木大介(ギタリスト)

教科書の解説を、生きた音楽的体験と結びつけてくれる〈schola〉

NHK Eテレで毎回高視聴率を記録し人気を博している『schola(スコラ) 坂本龍一 音楽の学校』から、坂本龍一氏が豪華なゲスト陣と共演した多数の美しいテイクを、オンエア時に編集、カットされたものも完全なかたちで収めたDVD「schola TV」。音楽を演奏する光景の素晴らしさ、それは音楽家どうしの歓びやセンティメントが飛び交う空気を目の当たりにすることだ。静かな熱気とも言える感応を観ていると、そういえば、作曲家と演奏家の間にも同じような交信があるものだ、ということを思い出す。
バッハのアリアにはバッハの、ドビュッシーの前奏曲にはドビュッシーの、人となりや、夢見た情景がたくさん織り込まれていて、演奏家を通して音の絵巻として空間に溢れ出る音たちに、聴者はそこにいるはずのない作曲家の言葉を、まるで「聴いた」ような気持ちになって行く。

音楽は言葉である。初めにそう言った人は定かではないが、この数十年の間、ニコラス・アーノンクールをはじめ古楽に精通した音楽家たちによって殊に強く提唱されてきたテーゼである。しかしながら音楽は、言葉であることを待たずして、太古においては通信手段であり、祈りの気分と陶酔へのトランス・ツールだった。人々の間に、社会が生まれ、文明が興ると、地域や世代に共通した認識を分かち合うための「言葉」が発生し、音楽もまた、生活様式に即したかたちで、思想や考えや行動を、音の連なりによって表すものへと発展した。つまり、音楽のなかには、その音楽が書かれた時代への作曲者によるコミットメントやメッセージが込められているので、音楽の演奏も、音楽を味わうことも、そこに内在するその音楽を産み落としたコミュニケーションに参加して行くことに他ならない。

「schola」での演奏を通して坂本龍一氏は、作曲家や音楽のスタイルに聞かれるそれぞれの時代や、その成り立ちをささえている筆遣いや技法の違いを慎ましく演じ分けることで、ふだん、あまり解説されることのない、「音楽」というコミュニケーション、あるいはメディアの変遷を、直感的に見つけさせてくれる。

意外なもので、音楽の授業、というと、小学校や中学校の頃から、その作曲家はどんな国に生まれて、どんな人生を歩んで、どれほど素晴らしい曲をたくさん書いたか、みたいなことしか、教えてもらえないのだけれど、そういう予備知識というのは、ひとえに作曲家が音楽の中で発した言葉を読み解くためのもので、試験の問題にするのは本末転倒なのだ。私たちはロックやジャズのミュージシャンの、同時代に発せられた言葉ほどに自由には、過去の作曲家のメッセージを肌で感じ取ることができない、だからこそ、彼らの生きた世界を、少しだけ想像してみる必要があるだけなのだ。

宗教や神話を描いていた西欧絵画芸術は、やがて歴史の一場面を描くようになり、個人の肖像を描くようになり、ついには、何の変哲もない日常の風景を、画家の個性的な眼を通して描くように変わっていった。その間には、平面的な描写が遠近法を伴って奥行きのあるものとなり、近代においてふたたび二次元的な、もしくは多次元的表現と出逢って新しいスタイルを造り出してきた。

その変遷についての学術的理解も、ガリレオやゴヤや、モネやピカソの「個性の違い」を読み取るための助けでしかないことを、なぜか美術館での私たちは感覚的に理解しているのに、音楽を聴く時には、あまりにも教科書に縛られてしまって、むしろ耳は閉じてしまう。

「schola」は、教科書の解説を、生きた音楽的体験と結びつけて、知性の理解を、感性の共鳴へと変えてくれるのだ。

本家CD&解説版「schola」第10巻は映画音楽。オネゲル、オーリック、コルンゴルトといった最古典から、ニーノ・ロータ、武満徹、モリコーネ他を辿る、博識なコレクションは、映画の発展の中での音楽の寄与を探訪する、贅沢なひとときを約束してくれるにちがいない。