ロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ〈現場の人〉久保憲司氏が、ロック名盤を自身の体験と共に振り返る隔週コラム。今回は、リミックス/リマスターのうえで新装されたマッシヴ・アタックの91年作『Blue Lines』について。ダークでヘヴィーな音像のなかにいま改めて見い出したのは、ポップスとしての同作の姿で――。
最近、音楽評論と世代の問題についてTwitter上で討論されているのを見かけましたが、大変な時代ですね。僕らが子供の時は「ウッドストックは」と語っても、それはたった6年前くらいのことだったので、話は簡単だった。いまは「マッドチェスターは」と語っても20年も前の話なのです。20年前の感覚なんかわかんないですよね。こういう音楽は、もう懐メロとして語るしかないんですかね。
でも、僕はいま、〈ロバート・ジョンソンが生きて、ブルースを奏でていた時代の感覚とはどんなものだったのかな〉と一生懸命いろいろな資料を読んだり、集めたりするのが楽しいです。
音楽評論って何なのかな、とこの頃よく思います。いまピート・タウンゼントの自伝「Who Am I」を読んでいるんですが、ピートが評論の歴史を軽く解説してくれていておもしろいです。もともとは、ポピュラー・ミュージックとしてのロックンロールしかなくて、評論もすごく軽いものが多かったと。そこに「Rolling Stone」や「Cream」といったUSの雑誌がシリアスに評論をするようになり、それに影響されてUKの音楽雑誌もシリアスになっていった……って、これ、いまの若い人には全然わからない感覚ですよね。若者たちにとって、シリアスな評論と言えばUKという感じなんじゃないでしょうか。
ロックンロールがロック——ここで言う〈ロック〉とはいまで言う〈オルタナティヴ〉に近いニュアンスだと思います——になった時代、その先駆けとなったのが『Tommy』だったみたいなことを語っていて、格好いいです。〈アメリカのシリアスなロック評論が『Tommy』の制作にすごく役立った〉とも書いています。
いまのUKのメディアはゴシップ化していて、「Rolling Stone」などに影響される前のメディアの感じに戻っているんです。商売をやっていくためには仕方がないという感じなんだと思います。それに反発する感じで、〈Pitchfork〉などのUSのメディアがまたロック評論を取り戻そうとしている感じが〈いま〉なのかなと思います。
「Rolling Stone」や「Cream」はアンダーグラウンドの雑誌だったから、商業誌に対抗するためにシリアスなことをやっていたのですが、それから40年経って、〈Pitchfork〉がまたネットというフィールドで同じことをしようとしているのはおもしろいなと思います。となると、またUKのインターネット・メディアから辛口の批評が生まれるのかな、と思います。
「Cream」なんてデトロイトの雑誌だったんですから凄いですよね。だから過激なことができたんだと思います。って、いまの若い人には「Cream」という雑誌がどれだけ凄かったかわからないですよね。僕もよくわからないですけど。僕が「Cream」を読んでいた77年頃は、けっこうチャラいピンナップ雑誌になっていました。
で、21年前のCDです。マッシヴ・アタック『Blue Lines』です。この作品がなければジェイムズ・ブレイクの『James Blake』もなかったです……と言われても困りますよね。でも、衝撃だったんですよ。みんながエクスタシーを食って浮かれている時に、こんなダークなアルバムが出てきたわけです。これこそ、80年代後半から90年代初頭にかけて生まれたダンス・ミュージックの影の部分――しかし、これこそ真実なのだという感じだったのです。でも今回のリマスターでは、けっこうスッキリと聴こえるようになっていて……これは、僕の思い過ごしだったのでしょうか? 思い込みが、マッシヴ・アタックの音楽をよりダークに、ヘヴィーに聴かせていたのでしょうか。
でも、いま聴くと当時見えていなかったものも見えてきます。“Be Thankful For What You've Got”なんか、スモーキー・ロビンソン級の泣きのメロディーですよね。30年前は、こういうことを思い付きもしませんでした。でも、マッシヴ・アタックはちゃんとやっていたんだと思います。いや、すべての音楽がちゃんとこういうことをやっているんだと思います。40年前も、30年前も、いまも、ちゃんとポップスとして聴かれるように、アーティストは考えて作品を作っているんだと思います。そこを、いつの時代の評論家も見逃したらダメだと僕は思うのですが、どうでしょう。