文楽を新たな目で見る
慣れているものから、今まで気づかなかった発見をするためには、それを客観的に見せてくれるものが必要となる。
『冥途の飛脚』はカナダ人の監督マーティー・グロスが1980年に近松門左衛門の3時間以上の文楽作品を90分の映画作品に編集したものである。音楽と語りの編集は作曲家の武満徹が担当している。彼は作曲家としてではなく、元の作品が半分以下に編集された時に一つの作品として聴けるように編集に参加した。かつて、篠田正浩監督の映画作品『心中天網島』という近松の文楽作品を20世紀の芸術作品として全世界に見せたスゴイ映画があった。その映画の武満徹の音楽の付け方は革新的だった。ガムラン、三味線や祭り太鼓の音が、まるで現代音楽のテープ・コラージュの作品の如くカット・アンド・ペーストで付けられていた。僕は、この映画を中学の時にアメリカで見た事によって初めて文楽の事を知った。だから、ずっと文楽は日本の芸術だと思っていた。しかし、ある時から、江戸時代には、今の時代の演歌やテレビ番組の役目を持つエンターテイメントだったと分かった。
西洋的なアートの感覚でこうした作品を見るのは今の人々にとって重要な事だ。この映画を見ると見ているところがNHKの収録する文楽と全然違う。語り手の意気込んだ顔の表情。エモーショナルな声で語る日本独特の義理人情の内容をまるで客観的に見ているように無表情に人形を動かす人達。
今回のパッケージに入っているブックレットも面白い。アメリカやイギリスでは、中学の頃からシェークスピア等を読んで、そのキャラクターについてクラスで議論をする伝統がある。しかし、日本では、何も質問せずに形だけを守るのが伝統になっている。これはどういう意味と聞いても、人形の動く形を見せるだけだった、とグロスは語る。新しい発想は、何故だろうと質問する事や別の見方をする事から始まる事が多い。文楽はブレヒト等の作家達に新しい発想を与える事が出来た。これを日本の伝統という形で見るのではなく、これからは別の時代の異文化として見る事が出来たら、新しい発想がきっと生まれるだろう。