人に、街に、音楽に恋する映画
映画はいくつもの写真から始まる。アンリ・カルティエ・ブレッソンを思わせるようなモノクロ写真が切り取る様々な街の風景。やがて写真は空港の手荷物受け取りのコンベアを写し出すと、空港を出てタクシー乗り場からタクシーの車内へ。写真はコマ送りの映像にように次々と重ねられて、動く写真=〈映画〉になっていく。そして、タクシーが向かう先にあるもの、それはモノクロームの世界から一転して、色鮮やかな大都会パリだ。『新しい靴を買わなくちゃ』は、そんなふうにパリにやって来たエトランゼ(異邦人)、カメラマンのセン(向井理)の視線を通じて物語が始まる。
タクシーに乗っているのはセンだけではなく、妹のスズメ(桐谷美鈴)もいる。スズメの提案で街の写真を撮ることになり、タクシーはセーヌ河のほとりへ。カメラはようやく狭いタクシーの車内から外へと開放されて、センとスズメのまわりをくるりとパンしながらパリの街を、空を映し出す。対岸にはノートルダム寺院。それは観客が見る初めてのパリの風景で、観客も2人と一緒にパリの空気を深呼吸したような気分になれるシーンだ。でも、旅の開放感に浸るのも束の間、センの身の上には次々とハプニングが起こる。スズメは恋人のカンゴ(綾野剛)に会うためセンを置き去りにしてタクシーで走り去ってしまい、そこにやってきたパリ在住のフリーライターのアオイ(中山美穂)が、センが落としたパスポートで足を滑らせて靴のヒールを折ってしまう。典型的なボーイ・ミーツ・ガール。そして、3日間の切ないラヴストーリーが始まる……。
監督は『あすなろ白書』『ロングバケーション』など、数々のテレビ・ドラマの脚本を手掛けてきてきた〈恋愛ドラマの神様〉北川悦吏子。本作では、パリという最高の舞台を用意して二つの恋愛を平行して描いていく。ひとつはパリで一人暮らしをしているアオイと旅人のセン。そして、アーティストを目指してパリで暮らしているカンゴと、日本からやって来た恋人のスズメ。アオイとセンは初対面なうえに、アオイのほうがひと世代歳上という微妙な関係だが、連絡先を渡したり、飲みに誘ったりアオイがセンにかまおうとするのは、異国の地で暮らす孤独感に加えて悲しい過去のせいでもあった。その悲しみに囚われてアオイはパリから離れられないでいる。それはまるで、ヒールが折れた靴でパリをさまよっているようなもの。センとの出会いのシーンで、ヒールを直してくれたセンがアオイに優しく靴を履かせてくれるが、その姿はまるでシンデレラにガラスの靴をはかせる王子様だ。果たして、センはアオイの歳下の王子様になれるのか? 一方、スズメはカンゴにかまって欲しくて仕方がないが、カンゴの気持ちは夢のためにパリに繋ぎとめられている。そんなカンゴに対して、スズメはある決意を秘めてパリにやって来ていた。二つの恋を彩りながら障害にもなるパリ。自然光で捉えられた、その美しい風景も映画の大きな見どころだ。
そして、このロマンティックな恋物語に奥行きを与えているのがサウンドトラックで、手掛けているのは坂本龍一と、彼が見出した若き才能、コトリンゴ。坂本が音楽監督をつとめて2人で曲を手掛けているが、なかでも印象的なのがモーツァルト《メヌエットK1》だ。映画ではアオイが部屋にあるピアノで弾いている「世界でいちばん猫に好かれる曲」だが、実際に弾いているのは坂本。凛として軽やかで、茶目っ気があって、アオイのテーマともいえるもの。そのほかサントラに収録されたナンバーは、コトリンゴのフェミニンな感性と坂本の濃密な作家性がほどよく溶け合うなか、ヴィニシウス・カントゥアリアの書き下ろし曲なども織りまぜて、さりげなく情感豊かな音楽が、もどかしい恋の行方を優しく見守っている。人に、街に、音楽に恋する映画。そして、自分にとっての〈新しい靴〉を探さなきゃ、なんて気分にもさせられる物語だ。