繊細さと情熱、そして独特のノスタルジアを漂わせるメロディー。来生たかおというシンガー・ソングライターの名前が一般的に知られるようになったのは、82年のこと。その年の正月映画「セーラー服と機関銃」で主演の薬師丸ひろ子が同名の主題歌を大ヒットさせたのがきっかけだった。曲を書いたのは来生で、夢の途中 と題して自身の歌唱でもヒットさせた。馴染みの薄い姓ということもあり、それまでシングル盤のジャケットやアルバムの帯に書かれた〈来生〉の文字には〈きすぎ〉とルビが振られていたが、大ヒット間違いなしと踏んだこの曲をリリースした〈その時〉からそれも省かれ、稀代のメロディーメイカーとして多くの人々に愛されることになる。
50年、東京生まれ。10代の頃にヴェンチャーズやビートルズなどを聴いたことをきっかけに、大学時代にはバンドを組んでライヴ活動をしていたが、その頃、〈アンドレ・カンドレ〉と名乗っていた井上陽水との出会いが彼の人生を大きく変えていく。72年に陽水が衝撃的なデビューを果たす一方、来生の道はなかなか拓けなかったが、陽水を通じて彼のディレクターと知り合った来生は、熱心に自作のデモを売り込んだ。当時、ギルバート・オサリヴァンから多大な影響を受けた彼は、自身のソングライティング・スタイルを着々と完成させはじめた頃で、書き下ろしたデモは他者への楽曲提供という形でいくつか世に出て、ディレクターからの評価も徐々に上げながら、やがてデビューへと漕ぎ着ける。
76年、シングル“浅い夢”でデビューした来生だったが、しばらくは大きな成果が掴めなかった。ようやく光が見えはじめたのは81年。ちょうど10枚目のシングル"Goodbye Day"が地方のラジオ局で推され、スマッシュ・ヒット。そして先述の“セーラー服と機関銃”である。同時期に彼がペンを取った大橋純子の“シルエット・ロマンス”も矢継ぎ早にヒットすると、その後はソングライターとして注目を集め、中森明菜の初のNo.1ヒット“セカンド・ラブ”をはじめとする数多くの楽曲を提供。82年の作曲家としてのセールスは、筒美京平に次ぐ2位となった。
ソングライターとして人気を集める一方、自身の作品もコンスタントにリリースしていった来生。現在に至るまで1~2年に1枚のペースでアルバムを作り上げているのは、流行作家として一時代を築き上げたシンガー・ソングライターとしては珍しいだろう。冒頭に書いたメロディーの特性は一貫しており、彼の歌声も老成する気配はまったくない。本人はマンネリとも述べているが、〈来生メロディー〉の懐は深く、聴き手が彼の曲を聴いて思い描く風景はきっとさまざまなはずだ。
来生たかおのその時々
『ジグザグ』 キティ/Tower To The People(1977)
初作で大きな成果は上げられなかったものの、この2作目ではジム・ケルトナー、デヴィッド・フォスター、スティーヴ・ルカサーら豪華メンバーを迎えたLA録音を敢行。プロデューサー・星勝の別プロジェクトのついで……ではあるが、それでも意気を感じた来生は名演を連発。ダニー・クーチと絡んだ“灼けた夏”がやはりハイライト。
『Sparkle』 キティ/Tower To The People(1981)
初のセルフ・プロデュース作。“Goodbye Day”が突出したメロウネスを放っているが、トレンドに乗ったリゾート感溢れるライトな風合いのものやファンク、変拍子の曲などアレンジの幅も広げ、“Easy Drive”“夢の肌”がTVCM曲として取り上げられるなど、彼の持つポップセンスがより深く、わかりやすく露呈したアルバムに。
『Dear my company』 キティ/Tower To The People(2000)
陽水や清志郎、尾崎亜美といった旧知の面々との共作曲を収録しているほか、大橋純子“シルエット・ロマンス”、中森明菜“セカンド・ラブ”、薬師丸ひろ子“セーラー服と機関銃”といった提供曲をそれぞれのシンガーを迎えてセルフ・カヴァー。ウェストコースト風情の“地上のスピード”は世紀末に滑り込んだ名曲だ。
『GOLDEN☆BEST 来生たかお バイオグラフィー』 ユニバーサル
ほとんどの作詞を実姉の来生えつこが手掛けてきた彼の楽曲。その真髄を手早く知るにはやはり……ということで、いくつか編まれているベスト・アルバムのなかでもデビュー曲“浅い夢”や大ヒット“夢の途中”など、80年代前半までのアーリー・デイズにスポットを当てている本盤を。まずはここから。