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commmons: schola vol.12 20世紀の音楽I

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o-cha-no-ma LONG REVIEW
公開
2013/07/11   20:31
ソース
intoxicate vol.104(2013年6月20日発行号)
テキスト
text:小沼純一(音楽・文芸批評家、早稲田大学教授)

scholaが提示する〈みんながゆるやかに共有できるスタンダード〉、ができるまで

「20世紀の音楽」とのテーマで巻をつくろう。

さて、ここで、もう引っ掛かる。何を、どうするか。20世紀といっても100年。これはけっして短くはない。近年はこれくらい生きるヒトもいないではない──104歳の誕生日をあと1ヵ月ほどで迎えられそうだったエリオット・カーター、96歳で亡くなったデュティユーが想いうかぶ──が、1人の生涯であっても、考え方やスタイルが変わることはままあってひとつに括れるわけじゃない。さらに大きな問題がある。そもそも、どこからが「20世紀」なんだ? 1901年に初演されたのは「20世紀の音楽」なのか?

それぞれのアタマのなかでは、「20世紀の音楽」のイメージがかなりはっきりしている。だが、それを外にだして、ほかのひとに説明したり、もうすこし一般化するとなったら容易なことではない。

かくして、vol.12はそうした「20世紀の音楽」をどうするか、から始まった。

議論され、確定されて、ようやく、どんな作曲家、どんな作品をいれていくのかへと移ってゆく。

いや、そこもまた問題なのだった。まだ議論もされていないし、巻でどのように扱うかも決まっていないけれども、19世紀だったらまだ何とかなりそうだというのがわかる。ヨーロッパを中心にすればいい。だが、20世紀はそうはいかない。アメリカがでてくる。アメリカといっても合衆国ではすまない。中南米だってある。ロシアはどうか。20世紀のロシアはソ連邦と重なるが、ソ連に属していた小国はどうなのか。

あ、それに、「20世紀」も一括りにはできない。やはり100年を幾つかに分けないとならないだろう。ならば、分割線はどこにあるのか。なぜ、「そこ」なのか。
ちなみに、刊行されたばかりの大崎滋生『20世紀のシンフォニー』(平凡社)という大冊があるのだが、こちらは2冊の『文化としてのシンフォニー』を締めくくるものとなるはずだったのに、ほとんどschola vol.12と変わらぬアポリアに陥って、別のものとして世にでたと考えていい。自分が生きている時代に重なったり近かったり、さらには情報が多く手にはいりすぎることは、逆説的にタイヘンさも生むという例だろう。

こまかく収録曲を選定してゆく段階になると、これまた、各人の見方や考えが違うのでややこしくなる。いや、新ヴィーン楽派があり、ストラヴィンスキー、バルトークと、メインはちゃんとある。でも、それでまとめていいのか? もっと各人が愛着を抱いていたり、影響を受けたりしているものがあるんじゃないか。

クルト・ヴァイルは? といえば、ヴァイルは「ぜ〜んぜんわからない」と宣う方がいる。20世紀前半だったら、電子楽器の登場があっていいかもといえば、「あってもいいけど、なくてもいいんじゃないか」との意見もある。重要な名ではあっても、ほとんど誰も「おもしろいとおもわない」作曲家もいる。あるいは、教科書的な見方だと無調から12音音楽、新古典派というようになるわけだろうが、ならば、第二次大戦中でもその後でもしっかりドレミの調性で書いていた作曲家はどうなるのか、とか。

さてさて、これでとりあえず第二次世界大戦が終わった頃の「ヨーロッパ」を中心とするところまでは来たのだが…。この作業、まだつづくのである。ふぅ。