ラッセンという「謎」と、その無視状態を解除するための試論
クリスチャン・ラッセンは、「インテリア・アート」の人気画家として、80年代から90年代にかけて日本において一部のアート市場を席巻し、多くの愛好者を獲得した。しかし、日本の現代美術界隈では、それを評価することも論じることも恥ずかしいものとして忌避され、まったく無視されてきた。正直に言えば、僕自身ラッセンの人や作品に感じ入ったことも、それを仔細に分析し論じようと思ったこともなかったし、またそこには大衆性に対する嫌悪という意識すらなかった。そうした暗黙の無視状態を解除するとどうなるかという試論として本書は非常に興味深い。
ある作家および作品がきわめて通俗的であることによって大衆的な人気を博したことなどを要因として、芸術の側がそれを拒むことをどのように考えるか。それは、本書でも基調のひとつとされているだろう、中ザワヒデキの提起した「ヒロ・ヤマガタ問題」にも顕著なことであり、より本質的な問題として考えうるものだと思う。
たとえば絵画、彫刻、具象、抽象、インスタレーションなど、どのような表現であれ、現在という同時代に制作されたものは、形式、様式、手法に関係なく「現代美術」である、という言い方がある。そのような意味で、ラッセンの作品と他の現代美術作品を区別せず、同時代の表現としてあえて等価にとらえることによって何が見えてくるだろう。長らく自身のコンテクストにしばられてきた現代美術においては、そこからこぼれてしまったものは批評の対象にならないというよりは、批評の側がそのための言葉を持っていなかったこともたしかだ。それゆえ、カルチュラル・スタディーズのような領域横断的な知見も必要とされてきた
本書は、さまざまなコンテクストからラッセンを積極的に見直し、そこに評価の指標をあたえようとする。その試みにおいて見えてくるのは、けして安直な礼賛ではありえず、それがやはり答えようのない「謎」であるということだろう。