GS(グループ・サウンズ)ブームの熱狂は、いまから45年ほど前の話。さながらリヴァプール・サウンドの勃興を彷彿とさせるそのムーヴメントのなかでもダントツの人気を誇っていたのが……今年44年ぶりにオリジナル・メンバーが集まり、年末に日本武道館、東京ドーム公演を含む7都市8公演のツアーを予定しているザ・タイガースです。“シーサイド・バウンド”“君だけに愛を”“花の首飾り”など数々のヒット曲を生み出し、ブームを加速化させていきましたが、終焉に向かうベルを鳴らしたのも彼ら。69年春に加橋かつみが失踪〜脱退し、オリジナル・メンバーの一角が失われた〈その時〉から、GSは足早に進んでいく時代に距離を空けられ、ザ・タイガースもしばし暗中模索の道のりを進むことになったのです。
69年12月、バンドの象徴だったジュリーこと沢田研二がソロ・アルバム『JULIE』を発表。そして、71年1月24日に日本武道館で行われた解散コンサートの直後に結成されたのがPYGでした。PYGは、ザ・タイガースから沢田とベースの岸部修三、ザ・スパイダースからギターの井上尭之とオルガンの大野克夫、ザ・テンプターズから萩原健一とドラムの大口広司という、同時期にグループを解散したメンバーたちが集まった、いわゆるスーパー・バンド。当時、ハード・ロックやブルース・ロックなど洋楽のトレンドに接近した音楽性を持つアーティストを〈ニュー・ロック系〉と呼んでいましたが、彼らもその流れに乗るバンドだったのです。しかし、所詮は人気GS上がり=芸能色の強いバンドという認識がリスナーのなかに強くあり、結成間もなく臨んだロック・フェスでは大罵声を浴びるなど、船出は厳しいものでした。71年4月にファースト・シングル“花・太陽・雨”を、同年夏にはファースト・アルバム『PYG』を発表するも、11月には沢田がシングル“君をのせて”で本格的にソロ・デビュー。萩原も役者業で人気を得はじめたこともあって、バンドは73年頃に自然消滅。バンドは前の2人を除いた編成で井上尭之バンドへと移行し、しばらく沢田のバック・バンドとしても活躍しました。PYGは〈スーパー・バンド〉らしい成果を残すことはできませんでしたが、沢田はソロになってもバンドへの強いこだわりを持ち続け、還暦を過ぎた現在もバンドを引き連れてツアーに出かけ、そしてオリジナル・メンバーによるザ・タイガースが復活という奇跡に繋げます。そんな彼の原動力は、少女たちの黄色い歓声を浴びていたGS期というより、石を投げつけられるような思いをしながらも見えないゴールに突き進んでいたPYG期に築かれたのかもしれません。
ザ・タイガースの面々のその時々
PYG 『PYG!』 ユニバーサル(1971)
GSの終焉と新しい時代の幕開け、その狭間に漂う寂しさと朗らかさのどっちつかず加減が独特のトーンを醸し出している、唯一のスタジオ・アルバム。和モノ・クラシックとして名高いシングル“自由に歩いて愛して”の英詞版“LOVE OF PEACE AND HOPE”や、GS的ロマンティシズムの残り香漂う“花・太陽・雨”がやはりハイライトになるか。
加橋かつみ 『パリ1969』 ユニバーサル(1969)
ザ・タイガース脱退直後に渡仏し、制作されたのがこのアルバム。作家陣には安井かずみ、村井邦彦、山上路夫といった前バンドの人脈のほか、あの“My Way”を作ったジャック・ルヴォーらも参加。ザ・タイガースの大名盤『ヒューマン・ルネッサンス』を彷彿とさせるエレガンスが、彼のハイトーン・ヴォイスをより美しく引き立てる。
サリー&シロー 『トラ 70619』 ユニバーサル(1970)
グループきっての音楽狂であり、センスあるベース・プレイヤーだった岸部修三(現・一徳)が、加橋に替わってザ・タイガースに加入した実弟のシローと組んだユニット。限りなく漫談に近いトークを絡めた“自由の哲学”に始まり、ハード・ロック・インスト“YS-11”、プロテスト的な〈羊大学校歌〉など、もはやGSの影はなし。
シローとブレッド&バター 『Moonlight』 ユニバーサル(1972)
プレイヤーとしてはいまひとつでも嗅覚には長けていたシローが、デビューしたてで知名度もまだまだだった兄弟デュオと組み、こしらえたのが本作。ウェストコースト風情のサウンドに、〈和製CSN〉とも賞したいコーラスワークが魅力だ。バックを支えるのは鈴木茂、林立夫、加藤和彦、後藤次利、山内テツら屈強の面々である。