残酷な、純愛。
17歳の夏。初めての恋。
でもすべては、あの事件とともに変わってしまった──。
10代のみずみずしい恋愛模様にセンセーショナルなテーマを織り込んだ鮮烈の青春ラブストーリー
“距離”をめぐる演出 /映画『ゆるせない、逢いたい』
まずは冒頭のショットがすばらしい。黒画面にセミの鳴き声と屋外でスポーツを楽しむ人々の声が重なり、やがて一人の高校生らしき体操着の少女が少し迷うかのような表情でうつむきかげんに立つ様子がクロースアップに近いサイズで映し出される。画面外から入ってきた別の少女が「今日のはつ実になら勝てそう」と言い残し画面右へ消えると、その言葉で目を覚ましたかのように同じ方向にはつ実も歩きはじめ、カメラも右へ移動、そこではすでに他の選手たちがスタートラインに並んでおり、号砲を合図にいっせいにスタートを切る……。
そうした流れがカットを割らずに描かれるこののショットは、もちろん映画のヒロインが陸上部に所属する17歳の高校生であるとの設定を示すものだが、そうした人物設定が前もって決定された規定事項に見えてはならない……との映画の作り手側の配慮に共感を覚える。たとえフィクショナルな登場人物であっても、はつ実は単に“陸上競技の走者”であるわけではない。それ以前に、何らかの迷いや悲しみ、希望や欲望を抱えた生身の17歳の少女をスクリーン上に息づかせねばならないのだ。そもそも、はつ実が陸上競技の走者であることは“設定”にとどまらない。800メートルなのか1600メートルなのか、ともあれ規定の“距離”を彼女は誰よりも早く駆け抜けることができ、本作は“距離”についての映画だからだ。ただし、これから彼女が走破しなければならないのは、あらかじめ決定されてはおらず、測定不能でさえある甘美にして苛酷な”距離”である。
翌朝、郊外住宅地の外れの新居に母親と越してきたばかりのはつ実は、回収業者のトラックをねぼけまなこで窓越しに発見、引っ越しに使ったダンボールを業者に出せとの母親の命令を思い出し、慌てて家を飛び出す。ゆっくり走るトラックの荷台上のカメラからの後退移動で撮影される、ダンボールを掲げ、すみませ~ん、と叫びながら走るはつ実は、先ほど僕らに見せつけたばかりの陸上選手としての脚力を思わぬかたちで再現するのだが、そんな彼女の姿が感動的なのは、恋愛も陸上競技とは別次元で“距離”の凌駕を目指すゲームだからではないか。
この時点ではつ実や僕らは、トラックを運転する回収業者(隆太郎)と彼女が恋に落ちることなど知らない。だけど、ゴミを回収してもらうための彼女の走りは、物理的に二人の男女の“距離”を急速に縮めてしまう。映画における恋愛は、心理を度外視した次元で生起し得る。僕らは恋愛を好きや嫌いなどの心理に還元しがちだが、心の中を見せることのできない映画にあって、――だけど現実世界において僕らに人の心が見えるだろうか?――それは物理的な距離の推移を介し描かれるべきで、好きだから走るのではなく、走るから好きになる、なのだ。ともあれ、ここでの彼女の走りを記憶にとどめてもらいたい。それは、映画のラスト近くで感動的なかたちで再現されるだろう。
本作の魅力は、恋愛を距離の主題において描く映画的センスにある。顔を認知し合っただけの男女がたまたま駅付近で再会するとき、二人は同じ画面の両端に置かれ、その後もはつ実は距離を置いて隆太郎の後を歩いており、いかにして二人の男女の距離が縮まるか……が映画前半の見所になる。部活で帰宅が遅くなりがちな娘を心配して母親が買い与える携帯電話もそんな“距離”をめぐる演出に活用される。携帯番号の交換は、男女の関係性を偶然性から必然性に置き直すが、逆に、その携帯こそが、はつ実からの連絡が途絶えることで隆太郎に深刻な焦りや孤立をもたらす。夫を亡くしたばかりの母親は、娘との距離を支配するために携帯を渡し、それが皮肉にも娘を遠ざける道具と化したことに気づき壊してしまうが、彼女にとって隆太郎とは、娘との親密な距離をめぐるライバルなのだ。そんな事情も知らずに隆太郎は、ある夜、はつ実をレイプするに至る。それは二人のあいだを隔てる距離の暴力的な克服であり、だけどそのことで二人は絶対的な距離によって隔てられる。もはや二人は犯罪の加害者と被害者へと引き裂かれるほかないのだから……。
海外では少年犯罪の加害者と被害者を話し合わせるプロセスが、互いに新たなスタートラインに立つうえで有効との考え方が一般的だが、日本では法律上会うことができないという。未成年によるデートレイプという“社会問題”を扱う映画である以前に、まずは恋愛映画としての完成度を高める作り手たちの意志が本作を成功に導いている。というのも、ゆるせない、逢いたい……との二つの矛盾する感情を、それでも両立させてしまうことこそ、恋愛の恋愛たるゆえんだからだ。隆太郎は相手を愛するがゆえに、隔たれた距離を暴力的に克服する行為=レイプに及ぶ。冷静な頭で考えれば理解し難いが、そんな理解し難さが恋愛につきものであることも僕らは知っており、はつ実の側でも、ゆるせない相手を、それでも愛していた事実だけが宙づりのまま残るのだ。それにしても、距離は甘美にして苛酷である。相手との距離があるゆえに、人はその相手を愛するようになり、距離を縮めようとする。しかしだからこそ、距離の無化は恋愛に危機をもたらすだろう。いずれにせよ僕らは、そんな測定不能で伸縮自在な距離で隔てられた他者と生きるのであり、恋人たちはそんな“距離”の甘美さと苛酷さを僕らに指し示すための格好のモデルであり続けるのだ。
映画『ゆるせない、逢いたい』
監督・脚本・編集:金井純一
主題歌:「ライン」salyu
作詞・作曲・編曲:小林武史
音楽:吉田トオル
出演:吉倉あおい 柳楽優弥 / 新木優子 原扶貴子 中野圭 (劇団前方公演墳) / ダンカン / 朝加真由美
www.yuru-ai.com
◎11/16(土)ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほか全国ロードショー
配給:S・D・P (2013年 日本 107分)
©S・D・P/2013「ゆるせない、逢いたい」