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鈴木淳史・許光俊/編著『クラシック野獣主義 クラシック知性主義』

公開
2013/08/29   19:17
ソース
intoxicate vol.105(2013年8月20日発行号)
テキスト
text:藤原聡

野獣?知性?相反するタイトルが意味するその先には…

『クラシック野獣主義』は鈴木淳史氏、『クラシック知性主義』は許光俊氏が編著。このご両名の名前を聞いて、両氏共著の傑作本『クラシックCD名盤バトル』(洋泉社新書)を思い出された御仁もいらっしゃることだろうが(いやー笑わせて頂きました)、今回の両著書も大変刺激的である。多彩な著者によるさまざまな切り口からの論考テンコ盛り。

歌舞伎もそうだが、クラシック音楽というものは古典芸能である(言うまでもないけれど)。つまり、極言すれば、2013年の現代においてはこの両者は過去に最大の隆盛を極めたジャンルが既にそのジャンル本来のポテンシャルを失い、時代との本来的な意味でのアクチュアルな関わりを失い、いわば既に閉じた体系内での差異が重視される「趣味」となったことと同義であり、まあこれはジャンルの「現状分析」としては妥当だろう。

であるから、クラシックを聴くという行為は極めて反動的かつ反時代的な行為であるのは自明のことなのだが、ではマイノリティ側のジャンルとは言え何故これだけ多くの人々が今現在もクラシックを好んで聴き、コンサートは毎日のように開催され、隆盛を極めている(ように見える)のか。単純化の謗りを恐れずに書けば、それはクラシック音楽の持つ圧倒的な面白さ、魅力が並外れているから、としか言いようがない(「普遍性」などとダサイことは書かないけど)。

この両著は「野獣」「知性」と一見相反するタイトルが付いており、確かに内容はそれぞれ情念寄り、知的な分析寄りとはなっているが、それを越えて共通するのは、前述した「圧倒的な面白さ、魅力」に対し、教条主義的な聴き方、「この曲の名盤は○○」というような十年一日、己の知性と感性を駆使しないような接し方では、それぞれの聴き手が新たな感覚を掘り起こすことはできないのではないか、新たな感覚を研ぎ澄まそう、そのためにはどうするか? との認識の上での様々な問題提起に満ちている点である。軽やかな文章からいささか晦渋な文章まで、下世話な内容から形而上学的な内容まで、いい意味での「幕の内弁当」、存分に楽しまれよ。