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カテゴリ : 佐々木 

掲載: 2008年04月01日 10:30

更新: 2008年04月01日 10:30

文/  intoxicate

ヴァレリー・アファナシエフ 特別寄稿:死と愉しみ(全訳)第4回

intoxicate誌2/20発行vol.72で特別寄稿いただいたものの、全文をイントキ・ブログにて毎週アップしていく予定です。内容は、2007年11月来日時に行われたレクチャーです。レクチャーで翻訳をされた田村恵子さんに多大なるご協力をいただきました。ありがとうございました。(協力:コンサートイマジン)


第四回

 さて、ここでカタルシスの問題に戻ってみましょう。カタルシスが芸術作品の鑑賞に及ぼす影響についてです。先ほども申し上げましたが、音楽は、聴く人が作品の登場人物に同情する余地を与えてくれません。作曲家が何らかの事情で、私たちの同情をかうような場合は別なのですが。ショスタコヴィッチはこの稀な例に当てはまると言えるでしょう。彼は常に死を恐れていることを公言して憚りませんでした。それでも、楽曲は作曲家一人のものではありません。トマス・マンのような偉大な作家が、なぜアドリアン・レーヴェルキューンの最後の作品の主役であるファウスト博士に解放の力を見出したのか、私には、どうしても理解できないのです。 <このような途方もない嘆きは卓越した表現と言うべきであり、人々を解放する。世紀を超えて古代の音楽と再び結びつき、人間の自己表現の手段となるのだ> この文章の意味が、私にはどうしても分かりません。ドイツ語で読んでも、フランス語で読んでも、英語で読んでも理解不能なのです。<解放の作品> これは、聴衆を解放するという意味なのでしょうか?  音楽を聴いて、聴く者は自由になれるのでしょうか? それとも、演奏家が音楽を奏でているうちに、楽曲そのものが次第に解放されて行くということなのでしょうか? それから、問題なのは <表現の作品> です。楽曲のテーマが嘆きを表現しているのは明らかです。それでは、一体誰のことを嘆いているのでしょうか?  レーヴェルキューンの傑作の頂に堂々と存在するファウスト博士の嘆きでしょうか? それとも、作曲家自身の嘆きなのか? 確かに音楽は登場人物たちの運命を強調しています。しかし音楽は彼らの人生や、私たちが彼らに対して抱く哀れみを超えています。音楽は死を永遠のものとします。主人公が消え去った後でも続いて行く日常生活において交わされる会話をもってしても、死の影は拭い去れません。トマス・マンが述べているのは永遠の嘆きなのです。もっとも、その周囲にはさまざまな回り道が用意されてはいるのですが。マンはとりわけ、<のびのびと表現していた> 古代の音楽に拘っています。勿論、全ての楽曲は表現の自由を讃えるものです。しかし、このことは私たちの関心をひきはしません。何しろ、古代の音楽にはカタルシスの要素はないのですから。バッハの作品の最終部分は、一気に長調に転じていますが、これは音階の問題を調整し、聴く者に安堵感を与えます。ところが面白いことに彼の『受難曲』は、まるで復活を忘れてしまっているかのように、短調で締めくくられているのです。

 <中世においては、死は大変重要視されていた> とフィリップ・アリエスは記しています。 <この死という、カロリング王朝における修道士の抱くような不安にも例えられる心の動きは文学者の間で増幅し、人々の間で広まり、影響力を強く持つようになった。その威力は幾世紀もの間、弱まることなく、中世の末期においては、死の舞踏に見られるような恐ろしい絵画作品が描かれるほどだった。そして、人々は身体的死の瞬間について思いをめぐらし、そのとき感じることに想像の翼を広げたものだった。その段階に至って初めて、死につきまとう人々の熱狂は、その強烈さを減じ、平静を取り戻したのである。>

 死についての人々の関心の減退は、ほぼルネッサンスと時を同じくして始まり、17世紀まで続くのですが、その頃、死のテーマが音楽に登場します。グレゴリオ聖歌にもオブレヒトのミサ曲にも死の痕跡は見られません。もっとも、これらの作品はスピリチュアルな気晴らしとも呼べるのですから、当然と言うべきかも知れません。ところが徐々に、年老いた巨匠たちの退屈な平穏さに手を加えたバロック芸術のドラマティックな調子が、ルネッサンス・スタイルに取って代わります。そして、ジェズアルドの晩年の作であるマドリガルが、音楽の世界に、音としての死のテーマをもたらします。それまでは、死を想起させるリズムを聴く事はあったのですが。私はかつて音楽をめぐるエッセーの中で、これらのマドリガルについて、こんな風に述べています。 <身体に浸み込むほどの感動を与えるジェズアルドのマドリガルの第5巻と第6巻は、聴衆を冥界に誘い込みます。カタルシスの効果が有効に働き、私たちは芸術を深刻になり過ぎずに楽しむことができます> このエッセーを書いていた当時私は、カタルシスを軽いものと捉えていました。しかし音楽は深い感動をもたらす芸術ですから、真剣に鑑賞しなくてはなりません。そう言えばレーヴェルキューンは話している相手に向かって、こう言っています。 <芸術作品とは何かですって?  そんなものは幻想ですよ。真正で真摯な何か、そう、とても短くて、究極にまで削ぎ落とされたものとでも言えば良いでしょうか> たとえ長い楽曲でも、聴く者に真実を示唆することはあるのですが。他ジャンルの芸術は鑑賞者の同情に訴えたり、リアリティに拘るために、真の感動を与えることは難しいのです。でも時には、音楽を聴く時に、周囲の現実が邪魔をして、身体の内奥から感動することができないこともあります。たとえばコンサート・ホールでは、隣の人が咳をしたり、そわそわと落ち着かないことが、ままあります。自宅でくつろいで音楽鑑賞をしている時でも、その世界に浸りきれないこともあります。しかし、チャイコフスキーは最後の交響曲を全身の力をこめて創り出したと言って良いでしょう。そしてペテルブルグでの初演では、自ら指揮をしました。注意深い聴衆なら、ジェズアルドのマドリガルを聴いていて、身体の奥底から沸き起こる感動に心動かされることもあるでしょう。

 私が自作の音楽劇『クライスレリアーナ』で表現しようとしたのも、同様の状況です。主人公は最終的に自殺を謀りますが、それは大仰な演技を主張し、繊細な暗示に富んだ表現を退けようとする演劇の大層な伝統に抗うためです。結局のところ、彼は音楽のために命を落とすことになります。従って、何か刃物のような道具を必要とはしません。主人公は身体の内奥から音楽を感じ取ります。まるでホフマンの作品の登場人物のように。ここにホフマンの小説『雌猫ムルの人生観』の中のクライスラーの行動の描写を引用してみましょう。 <音楽があなたに及ぼす影響は大き過ぎる。あなた自身の存在に、悪影響をしか与えない。素晴らしい演奏に耳を傾けているあなたは、表情が常ならぬものになり、顔色は蒼ざめ、ため息をつき、目には涙さえ浮かべるほど曲に引き込まれてしまっています。> 私が書いた戯曲の中では、主人公はこの件を音読し、自分自身の行動がクライスラーのそれと似通っているか自問します。そんなことがわかるでしょうか? 演技しながら、鏡に映った自分の姿を見ることなど、できはしないのですから。でも、舞台の上では、彼はシューマンの役を演じています。また、同時にクライスラーでもあります。そして舞台の袖でもそのことは続きますし、舞台を離れた日常生活でも続きます。彼はまた、シューマンの戯曲の一部にもなります。そして、この劇、そのものが彼の命を奪います。何しろテーマは狂気と死なのですから。

 音楽が言葉を話さない事は明白な事実です。或いは、こう言った方が当たっているでしょうか。音楽は、死と狂気が、言葉としては存在しない言語を話しているのだと。音楽は何ものをも表現しません。ましてや、死などについては語りません。しかし、音楽は死に引き寄せられます。それはまるで、フロイトが主張した死への衝動に突き動かされているかのようです。死が近づくに連れ、フロイトは以下のような結論に達しました。 <人間の神経組織は次第に安定したものとなる。以前の静寂で美しかった状態に戻るのだ> 生命体は無機的な素材で形成され、その素材は、死に絶えてしまっているのだとも言えます。我々が再発見しようとしている存在は無気力な状態にあり、エネルギーを奪い取られてしまっています。これこそが死なのは当然です。つまり、生の究極は死なのです。私は特にフロイトのファンという訳でもなく、その理論の支持者でもありません。ましてやマルクスのファンという訳ではありませんが、彼らの説に反論を唱える者でもありません。しかし、だからと言って、フロイトの理論にもマルクスの理論にも諸手を挙げて賛成ということにはなりません。彼らの理論は科学的とは言えません。しかし、詩情を湛えているとは言えるでしょう。生が石のようであったら、美しいかも知れません。もっとも、私自身としては、そんな風であって欲しいと思う訳ではないのですが。音楽は、カタルシスを、死の衝動=タナトス によって置き換えることによって、聴く者に逃げ道を提示しているようです。グレゴリオ聖歌を聴くと、果てしなく続く日常の決まりきった仕草に飽き飽きしている人々は、気が晴れることでしょう。私たちが死を目の届く範囲から遠ざけようとすればするほど、死は目につくところに居座ろうとします。

 アリエスの主張によれば、死が次第に私たちの生活や思想から姿を消しつつあるようです。そこで、音楽が思想の代わりを勤めるようになります。第一次大戦以前に、マーラーは突然の容赦のない死の例をいくつも私たちに示しました。その後、ベルクとショスタコヴィッチが、もはや時代遅れとなった死について、私たちに考えるよう促しました。死は音楽の領域に居場所を見つけ、我々聴衆は、それと気づかず死と直面させられることとなりました。そう、音楽は死、そして沈黙を渇望します。それではシューマンの『クライスレリアーナ』を例にとってみましょう。作曲家は、この曲のエンディングで聴く者に落ち着きを備えた動物界を再発見させようとしています。ホフマンはクライスラーのタナトス=死の衝動 を、以下のように描いています。 <或る日、忽然と彼は姿を消してしまった。もとより、狂気の兆しが感じられたと主張する者もあった。実際、帽子を二つ重ねて被り、陽気に飛び跳ねながら歌い、胴に回した赤い帯に、紙に線を引くからす口2本を刀のように挟みこんで、街の外に出て行くのを見た者がいたと言うことである> シューマンはこの件にヒントを得て、自作の『クライスレリアーナ』の最終章を書いたことでしょう。でも、ホフマンの小説では、この文章は冒頭にあります。そして、この文章の前にはホフマンが拘っていた、音楽が主人公に及ぼす残酷な仕打ちについて描かれています。 <歌は彼に不吉と言っても良いほどの影響を与えた。彼はまことに気まぐれになり、その精神は危険な領域に消え去り、誰も後を追うことがかなわないのです> ホフマンは作品を、皮肉をこめつつも、良い兆しを暗示する文章で締めくくっています。<私が信頼していた筋は、まったくデタラメな判断を下していたことが判明した。このたび私が蒔いた種は良質のものであって欲しい。そして、そこからすくすくと、知恵の木が育ってくれたら、とても嬉しい> シューマン作の『クライスレリアーナ』では最後に呆気なくクライスラーは死んでしまいます。音楽は解体しつつも構造は保ち、それは石、或いは生命のない存在にも喩えられるでしょうか。この作品は小品ですが、それ自体で完結しています。ところで、ここで問題になっているのは「カタルシス」ではなく「タナトス=死の衝動」で、人間の本性が根底的に動かぬものであることが示されています。音楽が一転して静寂に姿を変えていますが、これこそ音楽の本質であると言ってもよいでしょう。英国人が静寂さと死とを同じものとみなしているのは、とても重要なことです。 <The sounds died down.> (音は次第に弱まり消えて行った)という表現が、そのことを顕著に表しているでしょう。

ヴァレリー・アファナシエフ

1947年、モスクワ生まれ。モスクワ音楽院でヤーコブ・ザークとエミール・ギレリスに師事。1968年のバッハ国際音楽コンクール(ライプツィヒ)、1972年のエリザベート王妃国際コンクール(ブリュッセル)で優勝を飾っている。1973年にモスクワ音楽院を卒業、1974年にベルギーへ亡命した。以後、ヨーロッパ、アメリカ各地でリサイタルを行うほか、著名なオーケストラと共演を重ねてきた。日本へは、1983年にヴァイオリニストのギドン・クレーメルの共演者として初来日。1987年の《東京の夏音楽祭》のソロ・リサイタルで熱狂的な反応を呼び起こした。
レコーディングは、DENONを中心に20枚以上のアルバムをリリースしており、1992年には「ブラームス:後期ピアノ作品集」がレコード・アカデミー賞器楽部門を受賞。来日のたび、新録音リリースのたびに、独自の音楽性が論議を呼び、音楽界に大きな刺激をもたらしている。
ピアノ演奏にとどまらず、《失踪》、《バビロンの陥落》、《ルードヴィヒ二世》などの小説を発表する文学者の顔も持っている。フランス、ドイツ、ロシアでの出版に加えて、日本でも2001年にエッセイ集《音楽と文学の間》が出版され話題となった。また、ナボコフ、ボルヘス、ベケット、カフカ、ジョイスなどを愛読し、ヴィトゲンシュタイン、道教思想、インド哲学に傾倒していることでも知られる。
 現在はパリを拠点に活動。現代におけるカリスマ的ピアニスト、指揮者として注目を集め続けている。

田村恵子

上智大学大学院博士後期課程修了。

専門は20世紀フランス文学。

フランス語、フランス文学を大学で講じる傍ら、

音楽、映画を中心に翻訳、通訳で活躍。

アファナシエフ氏のレクチャー通訳を

2001年より担当。