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掲載: 2009年02月12日 17:42

更新: 2009年02月12日 17:42

文/  intoxicate

最終回【完全版】世武裕子×岸田繁・佐藤征史(くるり)対談
聴き手:小沼純一(音楽・文芸批評家/早稲田大学教授)



現在配布中のintoxicate vol.77に掲載されている世武裕子×岸田繁・佐藤征史(くるり)対談の完全版です。誌面ではスペースの都合上、泣く泣く削った箇所が非常に多かったため、、このブログに完全版を三回に分けて掲載いたします。



第一回はこちら
第二回はこちら



Sebuquruli




(写真左から、くるり岸田さん、佐藤さん、世武裕子さん)



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せぶひろこ。滋賀県生まれ、京都育ち。パリ・エコールノルマル音楽院映画音楽作曲科を首席卒業。2008年、デビューアルバムとなる「おうちはどこ?」をNOISE McCARTNEY RECORDSよりタワーレコード限定でリリース。




小沼(以下、小):どんな音楽を聴いてきたんですか?



世武(以下、世:いろんな音楽、いろんなジャンルが好きなんですけど、一番根本的になにが好きっていうのがあるとすれば、クラシカルな近代音楽と民族音楽が好きなんです。ただ、自分でできるかどうかは別にして好きなのは……ロックもすごく好きで、パンクっぽいのも好きやし、結構ハードな感じの曲も(笑)。自分がつくってる音楽と違う音楽の方がよく聴きます。似た感じのものはあまり聴かない。



小:近代というと?



世:全体的に好きなのはプーランク、ラヴェル、バルトーク、スクリャービンですね。



小:プーランクの左手の動きとかいいですね。左でラのオクターヴ、右手でドミソシ、とか。民族音楽では?



世:一番影響を受けているのはアイルランドと東ヨーロッパの音楽です。それとアラブ音楽もすごく好きで。行っていたのがヨーロッパだということもあって、あんまりアメリカ方面の民族音楽は知りません。



小:アルバム最初の《旅のはじまり》のなかで、反復的な音型がずっと続きますね。そのあとですごく不協和な音をわざとつくっていくでしょう? 反復的な音型で曲をつくる人っていくらでもいるわけですけど、そこからああいう軋みみたいなものが出てくるセンスがとても面白い。



世:つくってるときは何も考えていないんです。自分がつくっているストーリーを追っているだけなので。映画を観てるときも、音楽は鳴ってるんですけど、自分のなかで「ここで音楽がでて」みたいに予測しつつ観ているので、それに近いです。反復していて、ここでちょっと持ってこようとか、そういうふうに考えてはつくっていないですね。



小:きっと自分のなかでは「何か」あるんですよね?



世:ストーリーがあると、転換部分がでてくるんです。その部分でその転換にあわせて、この音っていうふうにつくっているので、そこが音楽としても転換部分になっているんだと思います。



小:そもそもNOISE McCARTNEY RECORDSっていうレーベル名は?



佐籐(以下、佐):7~8年くらい前に、人の楽曲のリミックスをはじめた時のユニット名がNOISE McCARTNEYやったんです。外人さんにもウケがよろしく。それでたまたまこのレーベルができたときにつけたんです。



岸田(以下、岸):ノイズからポール・マッカートニーのようなエヴァーグリーンなポップスまで……みたいなことをよく聞かれるんですけど、そういう考えを茶化しているくらいの気持ちで、そんなに深い意味はないんです。



世:この名前のおかげで、外国人の友だちが「なんかロックっぽい、かっこいい、凄そうなレーベルから出してる」みたいに言う(笑)。



岸:かっこいい、凄いレーベルやん(笑)。



小:世武さんのアルバムで何作目ですか?



佐:20作目ですね。



小:最近はクラシックっぽいものが多いですね。クラシックを勉強してとか、バックグラウンドはクラシックにあるけどちょっと拡大して新しいことをやってるという人が海外には結構多い。日本にもでてきてはいるけど、なかなか一般には聴く機会がない。そういう意味では、こういうレーベルが出してくれると、日本でやっている人たちにとっても励ましになると思います。



岸:ウィーンに行ったときに、ニコラウス・アーノンクールのモーツァルトかなんかを聴いたんです。すごくいいコンサートだったんですよ。そのあと何回か彼のものを、もっと彼の趣味方面のものを観にいったんです。楽器の編成も古楽の編成で、彼のやっているピリオド奏法の徹底とか、指を離さないで弾いているとか。そういうコンサートを観て、おなじ曲をやっていても、音の大きさが違ったりとか、音楽の目的自体が違うような気がしたんですね。
僕はそれぞれの音楽の持っているそういうところが好きで、それはさっき世武さんが言っていた、よりパーソナルな人間のつながりということもそうだし、ベートーヴェンが曲をつくるときにブドウ畑の近くを散歩していて、田園の有名なメロディを思いついたとか、一聴「へー」っていうような話でも、僕はそういうことは大事なことだと思う。自然との対話とか言ってしまうと胡散臭いんですけど、そういうパーソナルなことを責任もって職人的にやる――そういうミュージシャンはいますごく少ない気がする。クラシックの世界にも少ないと思う、僕が知る限りでは。とくに日本。ロックの世界にはほとんどいないですし。でも意外と表に出てない人で、世武さんのように、そういうことを当たり前のようにやっている人がいるのかなぁ、と。



小:自分のなかの声を聴いて、他者とのあいだでそういったものを分け合いながら、音楽をまた別のかたちにしていく、と。



岸:そうですね。60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンっぽいものをつくったこともあって。でもそういうものをつくろうと思ったら、やっぱりかくあるべき機材で、そのときの録音の仕方が必要になる。アーノンクールがピリオド奏法になんでそんなにこだわっていたのかということに似ていると思うんです。そこまで遡ることって面倒くさいじゃないですか。なんでこうやったかという歴史的事実とか条件とか。モーツァルトが何を考えてこういう曲をつくっていたのか、とか。そういうことって邪魔くさいからどんどん省いていける。省いていってやるカジュアルさもいいと思うけど、僕は昔の音楽で残っているものですごいレヴェルのいいものほど、それを追う楽しさとか夢はあると思うんですよ。取り入れ方もいろいろあるし。
世武さんのアルバムというのは、そことのユニークなつながりがあるな、と。僕が最初に聴いたときには、ラヴェルなのかドビュッシーなのかライヒなのか久石譲なのかわからないですが、聴こえるいろんなものが昔の……



小:そうですよね。僕はいつも音楽的記憶という言い方をするんだけど、世武さんがいままで聴いてきたものがうまい具合に、自分のフィルターを通して出ているなと感じていました。



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