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ベーム&ベルリン・フィルのブルックナー:交響曲第8番~1969年ステレオ・ライヴが登場!

ベームのブル8

TESTAMENT社より、カール・ベームの初出録音が2タイトルが発売となります。2枚目は、ベルリン・フィルとのブルックナー交響曲第8番です。ブルックナーと同郷であるベームにとって、ブルックナーの交響曲は生涯に渡り大変重要なものでした。しかしながら、ちょうどベームのキャリアが開始された頃、ブルックナー協会が発足し、いきなり改訂騒動に巻き込まれることになります。さらに、レコーディングに関しては、SP全盛時代であり、長時間に及ぶブルックナー作品の録音は困難を極めました。

その後、コンサート活動でも録音でも、フリーランスという立場を貫いたベームは、ブルックナーのレコーディングの機会にも恵まれず、デッカがベームにブルックナー録音を依頼したのは1970年代になってからのことでした。しかしながら、ベームにとってブルックナーの空白期間は、その音楽の本質に迫る不可欠なものであったと考えられています。ベームの魅力はなんといってもその「率直さ」にあり、複雑な物事をシンプルに表現する技術にあります。こうして到達したこの第8番の演奏には、圧倒的な説得力があります。

さらに、オケはベルリン・フィル。当時から、力量としては他の追随を許さず、しかも、ニキシュ、フルトヴェングラーから
シューリヒト、カラヤンまでのすべてのブルックナーのスタイルを熟知していた最高のオーケストラとの共演です。すべての条件が奇跡的に整った瞬間を捉えた貴重な録音の登場です。

《世界初出・ステレオ》

アントン・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調

1 I Allegro moderato 14分54秒
2 II Scherzo 13分15秒
3 III Adagio 24分25秒
4 IV Finale: Feierlich, nicht schnell 21分43秒

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:カール・ベーム
(74分18秒)

録音:
1969年11月26日、フィルハーモニー・ザール、ベルリン

日本語ライナーノート

 小説家、画家そして作曲家の名声というものは、それぞれの死によって、しばしば急速に減退する。ブルックナーの場合、完全にこの潮流に逆らっているわけだが、それは少数の影響力の強い友人や相談相手(通常はそれほど役に立たないものだが)によるところが大きい。ブルックナーが存命中、彼らはブルックナーの音楽を妨げ続け、それはブルックナーの死後も変わらず、楽曲の縮小や交響曲の再オーケストレーションによる「版」を多く生み出す要因となった。

 ブルックナーの再評価は遅々として進まず、公式には1929年、ウィーンでの国際ブルックナー協会の設立を待たなければならなかった。この協会の目的は、改訂責任者のローベルト・ハースのもと、彼ら独自の版においてもブルックナー自身が着手して承認した版においても、交響曲の的確な演奏用楽譜を確立することであった。

 少なくとも、古い版で育った指揮者たちにとっては、迷惑な話であった。フルトヴェングラーのような指揮者は、音楽を再度研究することに着手したし、必要とあれば学び直しもした。ハンス・クナッパーツブッシュ(当時、ブルックナー指揮者として名を馳せてはいたが、楽壇からは辺境の人と認識されていた)を筆頭とする他の指揮者は、それまで自身がやってきた方法を続けた。

 そんな中、カール・ベームは比較的恵まれていた。1894年、ブルックナーの故郷オーストリアのグラーツに生まれ、1920年代まではブルックナーを振ったことがなかった。そういう意味で、ベームの場合、何かを捨てたり学び直す必要はなかった。しかも、彼自身すぐに改訂騒動に巻き込まれることになる。1936-37年、ドレスデンでの第4番と第5番のエレクトーラを介した独 EMIへの録音は、ブルックナー協会によるこれら2つの交響曲のハース新版のプロモーションの一環として行われた。

 ブルックナーの音楽はベームが指揮者として形成されていく過程での風景画の意味合いを持つ。ベームの父親は弁護士でグラーツ歌劇場の評議員を務めた人物だが、ウィーン、バイロイト、その他の地の楽壇の学ぶべき点をグラーツにも導入した。彼は、1892年にウィーンでブルックナーの交響曲第8番を初演したハンス・リヒターと旧知の仲であった。さらに、ブルックナーの弟子のひとりフランツ・シャルクに最初の指揮の機会を与えるよう主張したりもしている。フランツは、ヘルマン・レヴィが「演奏不可能」と宣言した交響曲第8番の1887年オリジナル版にブルックナーによる改訂を加えさせたことに深く関わったヨーゼフ・シャルクの弟である。

 当時の慣習どおり、ベームは歌劇場でキャリアをスタートさせた。家族ぐるみの付き合いのあったカール・ムックが1921年に招待してくれたミュンヘン歌劇場を拠点とした。当時、ミュンヘンにはリヒャルト・シュトラウスとブルーノ・ワルターが君臨していた。ダルムシュタット市立歌劇場の音楽監督に就任したのは、1927年、ベ ーム33歳の時であった。この就任により、ベームのオペラ以外の作品に対する探検が始まった。1931年にはハンブルク国立歌劇場、その3年後にはドレスドン国立歌劇場の音楽監督を歴任する。ドレスデンでは、フリッツ・ブッシュの後任として音楽監督となった。

 ブッシュは1933年の春、ドレスデンに着任したガウライター(ナチスの役職)とナチスの後援者による歌劇場への攻撃があり、同劇場を辞任したのだった。ドレスデン歌劇場は、ドイツの文化的拠点として重要視され過ぎたため、地方政治家の干渉を許してしまったのである。ブッシュの離任後、そうした暴力は止んだ。ベームは新政権との間にイデオロギー上の問題を持たなかったため、ウィーン国立歌劇場の総監督に就任する1943年まで、無事にこの地位を保った。

 1936年11月、ドレスデン国立歌劇場はロンドンに招かれる。当時、王立歌劇場は、特定のオーケストラを所持しておらず、研修として受け入れられたのである。ベームは《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》《トリスタンとイゾルデ》《ばらの騎士》を上演し、リヒャルト・シュトラウスが自身の作品《アラベッラ》を上演した。コンサート・オーケストラとしてのザクセン国立歌劇場管弦楽団(現在のシュターツカペラ・ドレスデン)はロンドンのクィーンズ・ホールで2度のコンサートを開催した。ひとつはシュトラウスが指揮し、もうひとつをベームが指揮した。ベームのコンサートは、新しいローベルト・ハース版のブルックナーの交響曲第4番を含んだものだった。ノーカットでオーケストレーションも原型に戻ったこの版の演奏は会場を大いに沸かせ、アンコールとしてワーグナーの《マイスタージンガー》のプレリュードが凱旋を知らせるように高らかに演奏された。

 ベームは第4番を1936年6月にドレスデンで録音もしている。翌年6月には、交響曲第5番も録音された。ベームが後に回想しているように、それらはすべて順調なプロジェクトではなかった。第一に、78RPM(SPレコード)を使ってブルックナーを短い部分に分けて録音せざるを得ず、これは困難を極めた。第二に、ノーカットの新版は長時間録音を必要としたにも関わらず、レコード業界はそれをなかなか追求しようとはしなかった。 SPレコードは、 LPがすでに登場していた1950年代初頭になっても、エレクトローラや HMVのカタログ上健在だったのである。

 さしあたり、ベームのブルックナーの傾倒はここで一旦終わりを告げる。1948年、ベームは VOXにウィーン・フィルとブルックナーの交響曲第7番を録音する。 VOXは戦後ウィーンにハンガリー系移民であるジョージ・デ・メンデルスゾーン=バルトルディ(訳注:作曲家メンデルスゾーンの曾孫)によって設立された会社である。その間、国際ブルックナー協会はベームより少し若いヘルベルト・フォン・カラヤンに注目していた。 EMIにより、カラヤンのブルックナー全集の可能性が検討されたが、時期は熟していなかった。

 1954年、フルトヴェングラーが死去すると、ベームはベルリン・フィルの首席指揮者の後任として名前が挙がった。1934年から43年にかけて、両者は非常に良好な関係を築いていたからである。結局のところ、選択肢はチェリビダッケとカラヤンに絞られた。時を同じくして、ベームが得、そしてすぐに失ったのが、ウィーン歌劇場の音楽監督(1954-56)であった。辞任に追い込まれた大きな理由は、頻繁な海外公演による不在であった。事実、1956年から1981年に亡くなるまでの間、どこにも専属しないことにより、ベームの活動範囲は広域に及んだ。演奏活動は、ヨーロッパ大陸、日本、アメリカに及び、驚くべきことにそれらの国々では、彼のかつての「第三帝国」との関わりを非難する声はほとんど聞かれなかった。

 ベームは特に、アメリカのシカゴやニューヨークでブルックナーを指揮することを好んだ。そこでは、ヨーロッパで演奏する時よりも、聴衆が音楽の内面性により理解を持っていると感じたからである。ベームは、その理由を(皮肉にも)1930年代にドイツ=オーストリアから逃げてきた移民の教師たちの影響だと分析している。

 ベームは、レコーディングにおいてもフリーランスであった。ドイツ・グラモフォンとの契約はベームにベルリン・フィルを指揮する機会を与えたが、ブルックナーの録音は叶わなかった。すでに、オイゲン・ヨッフムの計画があったし、60年代半ばからはカラヤンに引き継がれた。ベームはデッカにも録音を残している。デッカは LP初期にはウィーン・フィルと独占契約があった。最初は、クナッパーツブッシュがデッカを代表するブルックナー指揮者であった。旧フランツ・シャルク /フェルデイナント・レーヴェ版を使った人気作品、交響曲第4番の存在は揺るぎない。その後、このようなブルックナー録音は、次世代のブルックナリアンに託されることになった。ホルスト・シュタイン、ゲオルグ・ショルティ、さらに次の世代となる、ズービン・メータ、クラウディオ・アバドの若いふたりが出番を待っている状態だった。

 結局1970年代になってから、デッカはベームにブルックナー録音を委託した。ウィーン・フィルとの交響曲第3番である。続いて1973年に第4番が録音された。この極上の演奏のグラモフォン誌での評はブルックナーの専門家、デリック・クックが受け持った。彼は「ベームがここ数年ブルックナー指揮者としての才能を‘灯火を升の下に隠して’きた」と記し、それを惜しんだ。

 ベームの指揮者としての成功の秘密はなんであろうか?ドレスデン時代のベームを知るゴットフリート・シュミーデルによれば、それはすべて「率直である」ことに繋がるという。ベームには複雑なものを平易に表現する天賦の才があった。この才能は、レパートリー作品を新しい光の中に表現することを可能にした。明晰で、弾力のあるビートが落ち着いた指揮法で示される。そしてベームは決して効果を目的に誇張をすることがなかった。

 ブルックナーの交響曲の長さを考慮すると、聴衆が時折その存在に当惑していることにベームは気づいていた。ベームはブルックナーから離れていた期間に、活力、明晰さ、そして展開されるドラマを聴く耳をもって現実化されるシンプルな設計図を描くことが出来たのである。

 ベームの交響曲第8番、第9番へのアプローチは常に説得力のあるものである。ブルックナー協会のレオポルド・ノヴァークによる1955年の第2版もすぐに取り入れた。1939年のローベルト・ハース版ではアダージョと最終楽章でブルックナーがカットした60小節が戻されているが、これは恐らく、ヨーゼフ・シャルクの提案であろう。ハースはそれらのカットは思慮のないアドバイスの結果と考えた。ノヴァークは、「情報源の混乱」は承認しがたいとしてハースを強く批判し、それらの小節を復活させた。この部分は未だ議論があるところで、審判は下っていない。

 ゆっくりしたテンポ、しかもダイナミックでありながら洗練された手法で、ベームのブルックナーは決して頭でっかちにはならない。ベームの特質は、たとえ技量に劣るオーケストラだったとしても、A点からB点への移動が可能な限り速くスムーズに聴かせる効果がある。ニキシュ、フルトヴェングラーからシューリヒト、カラヤンまでのすべてのブルックナーのスタイルを熟知していたベルリン・フィルは、彼らの歩調を崩さずよくベームのアプローチを受け入れている。しかも、彼ら自身の伝説的な力量と音質的優雅さを、この1969年の交響曲第8番のベルリン・ライヴでも遺憾なく発揮しているのである。

(c) Richard Osborne,2015
訳:堺則恒

カテゴリ : ニューリリース

掲載: 2016年06月13日 15:00