バルビローリのモーツァルト交響曲第40番&ワーグナー“神々の黄昏”抜粋ライヴ!
残された録音は少ないながら、定評のあるバルビローリのワーグナー。ワーグナー歌手の衰退が言われていた時期に、世界中のワグネリアンを納得させたアニタ・ヴェルッキとの共演!
多くの人を驚かせた、EMIによるバルビローリへのドレスデンとの《マイスタージンガー》録音のオファー。この計画は、1968年のソ連によるチェコ侵攻のため(この侵攻へ抗議したクーベリックがチェコ侵攻を支持した国へのボイコットを呼びかけ、バルビローリはこれに応じた)実現はしませんでしたが、当時からバルビローリによるワーグナー演奏が高く評価されていたことが窺われます。しかしながら、バルビローリは「オーケストラ指揮者」として名声を得ており、オペラ、特にワーグナーにおいては「新参者」といったイメージもありました。EMIのこの計画は、多くの聴衆にとって驚きであったといわれています。とはいえ、バルビローリとワーグナーの関係は古く、指揮者として初めて演目として取り上げたのは1927年。それ以前にも、チェリストとしてワーグナー作品の録音を残しています。そしてまた、管弦楽演奏によって培われたオーケストラ・コントロールは、ワーグナー演奏に必要不可欠な要素であり、バルビローリが元来持っているオペラティックな素養とあいまって、理想的な演奏が紡ぎだされています。録音が少ないながら、彼のワーグナーが高い評価を得ているのは、こうした理由があるのです。フラグスタート、ヴァルナイを継ぐワーグナー・ソプラノが、ブリギット・ニルソンしかいないというワグネリアンの悲観を解消させたというアニタ・ヴェルッキ。難役をこなし尚、余裕さえ感じさせる器の大きさにより、その歌唱は神々しさすら感じさせる見事なものです。
(テスタメント)
【収録曲目】
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト 1756-1791
1-4 交響曲第40番ト短調K.550
リヒャルト・ワーグナー 1813-1883
《神々の黄昏》
5 夜明け~ジークフリートのラインへの旅
6 ジークフリートの葬送行進曲
7 ブリュンヒルデの自己犠牲
【演奏】
アニタ・ヴェルッキ(ソプラノ)
ハレ管弦楽団
指揮:サー・ジョン・バルビローリ
【録音】
1964年1月21日、マンチェスター、タウン・ホール
(イギリスBBC放送によるモノラル録音)
日本語ライナーンノーツ
1964年と1965年、マンチェスターとシェフィールドにおいて、ハレ管弦楽団はワーグナーの三大フィナーレを取り上げたコンサートを行った。《トリスタンとイゾルデ》の愛の死、《ジークフリート》の愛の二重唱、それに、指環4作の終幕となる《神々の黄昏》のブリュンヒルデの自己犠牲の音楽である。それぞれを歌ったソプラノは、名声を得たワーグナー歌手の中では比較的新顔であったアニタ・ヴェルッキであった。ヴェルッキは、ロンドンのコヴェントガーデン、ニューヨークのメトロポリタン、最終的にバイロイトでブリュンヒルデ役としてデビューし名声を得た歌手である。ヴェルッキは、キルステン・フラグスタート、アストリッド・ヴァルナイ、マルタ・メードルの後釜はビルギット・ニルソンしかいないという世界中の悲観論の中台頭してきた歌手であった。管弦楽を受け持ったのは、ハレ管弦楽団で、 1943年より同楽団の音楽監督はバルビローリが務めていた。バルビローリ自身もその経歴上、オーケストラ指揮者として名を馳せており、オペラ、さらにはワーグナーにおいては新参者と捉えられる傾向があった。
数年後、EMIがバルビローリに東ドイツのドレスデンと《マイスタージンガー》の収録をオファーしたことには多くの人が驚いた。(バルビローリは 1968年のソ連のチェコ侵攻 [チェコ事件]を支持した国々へのボイコットを要請したラファエル・クーベリックへの共感により、この録音を断っている。)そうした人は、バルビローリはこの楽劇を 1927年(ニューカッスルにてブリティッシュ・ナショナル・オペラ [以降 BNOC]と)以来演奏してきたことを知れば(思い出せば)さらに驚くかも知れない。 1927年には《さまよえるオランダ人》の第三幕への前奏曲と序曲をベル・エレクトン社に録音もしている。( 1911年10月に、ロンドンのエレファント &キャッスル・スタジオにて《タンホイザー》のヴォルフラムの夕星の歌をアレンジした作品をバルビローリはチェリストとして、さらに妹のローザがピアノを演奏したものが最初期に録音した 4つの録音のうちのひとつである。) 1929年、 BNOCと改名したコヴェントガーデンと初めて地方巡業に出た際、《マイスタージンガー》が取り上げられた。 30歳手前のバルビローリは BNOCの音楽監督を務めており、数ヶ月に渡り週 6作の異なったオペラを指揮していた。その中には、《トリスタンとイゾルデ》と《ヴァルキューレ》が含まれていた。
ロンドン交響楽団のコンサートでビーチャムの代役を務めてからフレッド・ガイズバーグの目にとまり、バルビローリは HMVに録音を始める。ロンドンでもフリダ・ライダー、ラウリッツ・メルヒオール、フリードリヒ・ショルとの共演でワーグナー公演が続いた。 1930年5月、ラウリッツ・メルヒオールがあまりに早く現れることやエリザベス・シューマン(エヴァ)が声を使い果たすことを止めるのに躍起になっていた頃、バルビローリはさらなるワーグナーを巡る冒険に踏み出し、伝説の《マイスタージンガー》の五重奏曲を SPに録音した。
続いて 1930年代には、イギリス本土でのイベント(多くはビーチャムに関係した)により、好評を博していたオペラ上演から遠ざかってしまう。それでも、バルビローリはコヴェントガーデンでいくつかのオペラを指揮した。いくつかのシーンが「ライヴ」録音されたエヴァ・ターナーとジョヴァンニ・マルティネッリとの《トゥーランドット》はこの頃の演目である。 1933年にスコットランド管弦楽団の音楽監督に就任した頃には、コンサートでワーグナー(《神々の黄昏》)やプッチーニの抜粋を演奏することがひとつの習慣となっていた。この習慣はトスカニーニの後任として 1937/38年のニューヨーク・フィルの指揮者となりアメリカに滞在した期間も継続し、ワーグナーの有名曲でのコンサートを何度か開催した。そうした中で、《トリスタン》の第 2幕(キルステン・フラグスタート)やバルビローリ自身の編曲による《マイスタージンガー》第 3幕からの組曲、合唱による《パルジファル》第 1幕の聖杯のシーンなどの演奏により初の全曲上演への要求が高まっていった。
1943年、ハレ管の指揮を引き継ぐために英国に戻ったバルビローリは、オペラ上演の機会が激減した。それでも、抜粋を別にして、ルートヴィヒ・ズートハウスとシルヴィア・フィッシャーによる《トリスタン》を含む 6つのオペラを 1951年から 1954年の間にコヴェントガーデンで上演している。 1969年にはローマで《アイーダ》(ギネス・ジョーンズ)を指揮したが、同曲を EMIに録音することはキャストの問題で断っている。さらにハンブルクで《オテロ》と《トリスタン》の上演が持ち上がった。テスタメントからはコヴェントガーデンでのマリア・カラスとの《アイーダ》 (SBT2 1355 2CDs)のライヴ録音が発売されている。さらに EMIには、《ディドとエネアス》《蝶々夫人》《オテロ》の有名なレコーディングが残されている。
アニタ・ヴェルッキ (1926-2011)は、フィンランドのバルケアコスキのステージで女優、歌手としてキャリアをスタートさせた。コッコラとヴァッサの劇場でミュージカルとオペレッタを専攻した。その後、声楽の勉強に取り組み、 1954年ヘルシンキでのコンサートでプロ・デビューを飾った。オペラ・デビューは、フィンランド歌劇場でのカールマンの《伯爵令嬢マリツァ》であった。ストックホルム・フィンランド歌劇のツアーで演じた、トスカとサントゥッツァで好評を博し、スウェーデンの首都に戻り、《アイーダ》と《ヴァルキューレ》のブリュンヒルデを歌った。フィンランド歌劇場では、《トゥーランドット》や《カーチャ・カバノヴァー》のタイトルロールなども歌った。ワーグナーの役では、 1961年のショルティとのコヴェントガーデンでの《ヴァルキューレ》 (Testament SBT41495, 4 CDs)、1962年のエーリッヒ・ラインスドルフとのニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での共演、 1963年バイロイトでのヴォルフガング・ワーグナーの新演出による《指環》(指揮はケンペ)の第3のノルンと、世界中の歌劇場でデビューを果たした。音楽評論家のピーター・クレイナウは「バイロイトでの圧倒的勝利。若々しいホッホ・ドラマティッシェ・ソプラノとして自身の豊かな声を自在に操る彼女には、最高の期待が集まっている。」と書いている。ウィーン国立歌劇場からも 3年の専属契約のオファーがあった。
他のワーグナーでの役柄(《ジークフリート》のブリュンヒルデ、クンドリ、ゼンタ、イゾルデ、エリーザベト、ヴェーヌス)も次々に演じ、主要なオペラハウスとロサンゼルスとイギリスでのコンサートを席巻した。トゥーランドットも当たり役となり、ウィーンやニューヨークでジュゼッペ・ディ・ステーファノやフランコ・コレッリと共演している。健康上の問題で一時的に休養した後、ヴェルッキはフィンランドにおけるシュトラウスの《エレクトラ》初演を果たす。彼女の活躍はドイツ、アメリカそしてイギリス(スコットランド歌劇場での《指環》初演にも出演)へと広がった。しかしデビューから 10年を経た頃、ツアー活動を休止し拠点であるフィンランドでの活動のみに限定することを決意する。新しい作品(サッリネン、メッリカントといったフィンランドの現代作曲家の作品の初演)にも挑戦し続けた。徐々に、メゾソプラノの役を演じるようになり、サヴォンリンナ音楽祭には定期的に出演した。(マリーを演じた《さまよえるオランダ人》は DVDで発売されている。) 1982年よりシベリウス音楽院で後進の指導にあたり、多くの受賞者を輩出した。
1964年にマンチェスターで行われたコンサートは、《トリスタン》《さまよえるオランダ人》《ジークフリート牧歌》からの音楽、さらに BBCのプレレコーディングでは(1月21日、マンチェスター・タウン・ホール)これらに加えモーツァルトのト短調の交響曲が演奏された。(1月21日、マンチェスター・タウン・ホールで行われた BBCのプレレコーディング)ワーグナーの生誕 150周年には少々間に合わなかった。 Daily Express紙のフランシス・グラハムによれば、サー・ジョン・バルビローリは「ワーグナーが歌える超一流ソプラノが足りなかった。」と説明したという。「我々の記念コンサートは 1964年の 1月まで待つことに決めた。 1964年シーズンの真ん中くらいにあたるのだが。我々が待ち望んでいたのは、フィンランドのソプラノ歌手、アニタ・ヴェルッキでもあった。待っただけの価値はあった。ヴェルッキの歌唱は年季が入ったワグネリアンたちをも驚愕させた。言葉がないほど素晴らしいパフォーマンスだった。」
The Guardian紙のマンチェスター版で、 J.H.エリオットは「ワーグナー・ソプラノの源流は途絶えていなかった。昨晩のソリスト、アニタ・ヴェルッキはその偉大なる伝統を受け継いだ人である。彼女は崇高ですらあった。ワーグナー歌手は、強大な交響的管弦楽の音響の中で等身大以上の存在感を発揮しながら音楽との一体感をも醸し出すことが要求される。こうした大役をヴェルッキは、必要とされるだけ美しくかつ、それでもまだ余力を感じさせるに十分な力量を持ってやすやすと成し遂げてしまった。この夜の公演は、すべてのワグネリアンの、特に黄金時代を知る長年のワーグナー・ファンの心に安堵の念を抱かせたに違いない。」と書いている。マンチェスター版 Daily Telegraph紙のマイケル・ケネディは以下のように書いている。「一貫して音楽的、情熱的、そして高貴な歌唱だった。ワーグナーの声楽作品の持つ美しさと絢爛豪華な音のタペストリーが持つ半透明である特質が強調された。・・・オーケストラは驚くべきパワーと音響で、スリリングなまでの壮大さを描き出し、それでいてスコアの精密さも良く引き出していた。サー・ジョンは彼のオペラティックな素養をもって、歌手への配慮もあり、安定してバランスのとれた実に見事な演奏をした。これらすべてが見事に成就したワーグナーなのである。」
(c)Tony Locantro, 2015 訳:堺則恒
カテゴリ : ニューリリース
掲載: 2017年02月14日 00:00