有頂天・ラフィンノーズにニューロティカ!かつてブームを牽引した豪華アーティストが語るカルチャー・ノンフィクションを見逃すな

1980年代に突如燃え上がった「パンク&ニューウェーブ系インディーズ」の熱気。人気バンドの一挙手一投足が世間の注目を集め、数えきれないほどの社会現象を巻き起こした。本書『いつも心にパンクを。』は、そんな時代のパンク音楽に数多の影響を受けてきた著者・佐藤誠二朗が、当時を知るアーティスト・音楽関係者への徹底取材の上で執筆した魂の1冊である。
日本のパンク・インディーズ史と、インディーズブームが終焉を迎えてもなおステージへ立ち続けるアーティストたちの想い。彼らの生き様はきっと、読者に「自分らしく生きる」力を与えてくれることだろう。
●「パンク&ニューウェーブ系インディーズ音楽」が世間にもたらした衝撃
1985年8月8日、NHKが放送したドキュメンタリー番組「TV-TV インディーズの襲来」。地上波で初めてパンク&ニューウェーブ系インディーズ音楽を体型的に取り上げた番組だ。当時ライブハウスでひときわ人気を集めていたラフィンノーズをメインに据え、彼らへの密着取材や当時ライバルと目されていたウィラードを絡めつつ、その他のバンドを紹介していくという番組構成だった。
深夜23時25分からほんの30分しか放送されなかったこの番組は、それまで「知る人ぞ知る」という立ち位置だったパンク&ニューウェーブ系インディーズ音楽を、一気に日本全国へ知らしめる「起爆剤」となった。
何か得体の知れないものがすでに始まっていることを、ようやく可視化してもらえた感覚――いや、暴かれてしまったという感覚に近かったかもしれない。 (※注)
出演したバンドの前衛的かつ爆発的なパフォーマンスに感銘を受けた若者たちを中心に、日本で巻き起こった空前のインディーズブーム。この時代、音楽を聴く・バンドをやるという行為は「切実かつ爆発的なもの」と化していたという。インディーズブームは、日本の音楽史へ間違いなく深い爪痕を残したのだ。
●インディーズブームの終焉とバンドブームの始まり
ラフィンノーズを筆頭とする数多のバンドの活躍により、1980年代、中でも1985年をピークとして2年続いた日本のパンク&ニューウェーブ系インディーズブーム。しかしながら、ファンの熱狂が最高潮に高まった1987年春、日比谷野外音楽堂で開催されたラフィンノーズのライブで大規模な群衆事故が発生してしまう。
新聞やテレビなどのメジャーなマスメディアは、3名の命が失われ重軽傷者20人を出したこの事故を連日報道した。
報道は徐々に過熱し、日本のアンダーグラウンドロックの現場では、危険なライブが横行しているという糾弾調が目立つようになった。 (※注)
皮肉にも「悪評」と共に脚光を浴びることとなったインディーズブームは、過熱する世論とラフィンノーズの活動自粛を最後に「強制終了」を余儀なくされる。
だが、ストリートから発信される同時代的な等身大ロックへの、ティーンエイジャーの渇望はふくれあがったままだった。 (※注)
若者の情熱はやがて、ネガティブな印象を強く植え付けられたインディーズ系から「メジャー系バンド」へ捧げられるようになった。すなわち、「バンドブーム」の到来だ。BOØWYやザ・ブルーハーツなど、インディーズとメジャー両方の性質を併せ持つ超人気バンドが誕生したのもこのブームの過渡期である。
●「いつも心にパンクを」――事故を乗り越え復活したラフィンノーズ
群衆事故を受け、メンバーの脱退や解散に追われたラフィンノーズ。このまま表舞台から消え去ってしまうかと思われた彼らだったが、ボーカル・チャーミーとベースのポンが再び意気投合したことで、1995年に奇跡の復活を果たした。
かつてのインタビューでチャーミーは、ラフィンノーズ再結成にあたり、「何をやってもいいんだけど、絶対にパンクロックでありたい」という意識を強く持ったと語っている。 (※注)
数度の活動休止やメンバーチェンジを繰り返しつつも、現在に至るまで活動を継続しているラフィンノーズ。還暦を超えたチャーミーは現在、「自身の年齢なりに」老いて生きる消極的な生き方を否定し、「いつまでも自分らしい輝きを持って生きること」を強く意識しているという。ライブの最中、全国のオーバーフィフティへ「栄光をつかめ」と呼びかけるチャーミー。1980年代から変わらぬチャーミーの熱い“パンク魂”は、筆者をはじめとするファンたちの心へ今も深く刻み込まれている。
注)「いつも心にパンクを。Don't trust under 50」より引用

