大出世した結果妬まれて“悪徳政治家”に?大河ドラマ「べらぼう」で注目された田沼意次の真実に迫る

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で“新時代”を目指す改革者として描かれ注目された、江戸幕府の老中・田沼意次。かつての意次のイメージといえば、賄賂を好む“悪徳政治家”だった。しかし近年、この評価は見直されている。今回紹介する「田沼意次の時代」は、負のイメージをもって語られがちな意次の真実に迫った1冊だ。
●異例の大出世を遂げた田沼意次
田沼意次は紀州徳川家に仕えていた田沼意行の嫡男として生まれた。16歳の頃に徳川家重の小姓となった意次は父亡きあと家督を継ぎ、9代将軍となった家重の側用申次に栄進。やがて意次は大名の列に加わり、明和4年には側用人に任ぜられている。
側用人とは5代将軍・綱吉の時代に設けられた役職で、財務や民政に通じた有能の士であれば、相応の家柄出身でなくても就くことができる。小姓から側用人にまでのし上がった意次が、いかに優秀な人物であったかがわかるだろう。意次の出世は続き、彼は10代将軍・家治の治世下で側用人兼老中として、幕政の実権を握った。
老中は幕府最高の役職で、今日でいえば総理大臣にあたり、一〇万石級の譜代大名が任ぜられるものであった。
それが足軽の子供の意次が正規の老中になったのだから、これは前代未聞のことであった。そのうえ老中と側用人という、幕府内にあってもっとも権力あるポストを二つながら兼ね備えたのだから、これも先例のないことで、田沼意次のように臣下の身として、これほど大きな権力を握ったものはかつてなかったのである。 (※注)
●現代にまで残った意次の“つくられた”悪評
賄賂を好み、賄賂によって政治を左右した悪徳政治家――これが長年信じられてきた意次の評価だった。著者は意次の悪評が世に広まった原因として、辻善之助が著した「田沼時代」という本を挙げている。その内容は江戸時代に書かれたものと、辻が書いたものとの2つに分かれているのだが、そのどれもが作為された悪事・悪評だというのが作者の説だ。
というのも辻の諸説の主な出典は、その多くが意次に敵対する者・敵対者に与する者によって、意次の失脚後に書かれていたというのだ。その他の史料も、巷に流れた噂話の寄せ集めなどで、また辻の史料の読み解き方にも問題があったと著者は考えている。
つまり田沼意次についてこれまで紹介されてきた「悪評」はすべて史実として利用できるものではないのである。 (※注)
●「田沼時代」の革新的な政策
“悪徳政治家”という評価が見直され、昨今は革新的な政策を推し進めた“改革者”として見られるようになった意次。彼が具体的に、どのような政策をおこなったのかにも触れておこう。
徳川吉宗が8代将軍になった頃、幕府は財政難にあえいでいた。吉宗は幕府財政を立て直すため、強引な年貢増徴と新田開発の推進を決める。その結果、税収は増えたが同時に百姓一揆が頻発した。
吉宗の子・家重の小姓であった意次は、年貢増徴政策をきっかけとする領主と農民の税をめぐる死闘も知っていたはず。そこから学んだのか、意次が打ち出したのは、直接税の引き上げをやめて商品流通に課税し、税の不足分を補う“間接税の採用”だった。
また、意次は通貨の一元化政策を実施したことでも知られている。江戸時代の通貨制度は「三貨体制」といって、金・銀・銭といったそれぞれ独立した貨幣によって成り立っており、地域によって通用する貨幣は異なっていた。関東や東国・中部地方では金が使われ、京・大阪を中心とする畿内、および西国や日本海地域では銀が使われるといった具合だ。
しかし金・銀・銭がおのおの別個の通貨であるとはいえ、その相互比価がたえず変動するのは、日本経済のために好ましくないので、幕府はできうればこうあってほしいという、希望公定価格を設定した。 (※注)
意次の政策は両替商らの強い反発を受けたが、その後も意次は「明和五匁銀」「南鐐二朱銀」の発行などをおこない、通貨の一本化を推し進めた。失敗続きではあったものの、今日我々が統一された通貨を使って生活していることを考えると、意次が目指した方向性自体は間違っていなかったのだろう。
辻の著作が意次の悪評を広めた1冊なら、本書は意次につきまとっていたマイナスイメージを振り払った1冊だ。意次の実像に触れたいという人はぜひ、本書を手に取ってみてほしい。
※注)大石慎三郎「田沼意次の時代」より引用
●大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」
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掲載: 2025年10月19日 21:00

