松田美緒 + 沢田穣治withストリングス
photo by Seiji Shibuya
深い陰影をたたえたジョビンのバラード集
アントニオ・カルロス・ジョビンと言えば、泣く子も黙るボサノヴァの神様だが、ジョビンの音楽を〈ボサノヴァ〉という狭いジャンルにのみ結びつけて考えてしまうのはいかにももったいない。ジョビンという人の音楽的地平は、もっと広大で肥沃だ。さすらいのボーカリスト、松田美緒とショーロ・クラブの活動で知られるベーシスト・作曲家・編曲家、沢田穣治がともに〈ジョビン〉のアルバムをつくろうと考えたとき、ふたりの頭にあったのはそういうことだ。
「そもそも室内楽っぽい感じでやりたかったんです。ジョビンというとどうしてもボサノヴァというイメージがあるけれど、そうじゃなしに楽曲としての魅力を全面に打ち出したかったんです。ハーモニーとメロディが絶妙なんですよ、ジョビンは。ボサノヴァの方向にはあえて行かないっていう意識が最初から強くあったわけでもないんですが、メロディとハーモニーを重視して選んでいくとサンバ・カンサォンばかりになっちゃって、ならばいっそのことサンバ・カンサォン集にしちゃえ、と」
そう沢田が言えば、松田はこう応える。
「シルヴィア・テレスとかエルジッチ・カルドーゾなんかが歌ってるバラード、カンサォンがすごく好きで、いつかそういう曲ばっかりを集めた曲をやりたいってずっと思っていたんです。今回の作品は、穣治さんがアレンジしたストリングスの存在が重要でしたので、その厚みとか豊かさに見合ったものを選んでいくと、結局ほとんどがカンサォンになってしまった」
本作の主役は、あくまでもジョビンの妙なるメロディだ。ふたりは、その旋律を、あくまでも慎重かつ繊細な手つきで扱っていく。
「自分の色を出しすぎてしまうことによって、ジョビンの曲を壊してしまうことが一番怖かったですね。自分のなかのリスペクトをちゃんとアレンジのなかに反映させないといけないので、ある意味プレッシャーもありました」と沢田はアレンジにおける苦労を語る。「自分の世界を表現するというよりは、ジョビンの世界をきちんと表現したいという気持ちが強かった」という松田は、今作においては、原詩の発音が完全にリオの発音となるよう徹底的に訓練したというから、ジョビンに対する想いのほどが知れよう。
出来上がった作品は、ジョビンのメロディがいかに芳醇で豊かな陰影に満ちたものであるかを、説得力をもって教えてくれる。
綿密なリサーチを経て練り上げられたアレンジ作業を通して、ふたりはジョビンの音楽がいかに偉大なものかを改めて再認識するにいたったという。「『いいものを遺してくれたんだなあ』って、心の底から思うようになりました」と、沢田は感動と苦悩に満ちた作業を笑いながら振り返るが、このアルバムを聴けば、それが誇張でもなんでもないことがわかるはずだ。
アントニオ・カルロス・ジョビンは、ボサノヴァの神様なのではなく、美しい旋律をつかさどる神様なのである。