阪本順治
©2011『大鹿村騒動記』製作委員会
《太陽の当たる場所》、 これしかない、 すべてがここにある。
──映画『大鹿村騒動記』阪本順治監督インタヴュー
観ながら笑い、ほろっとし、場内が明るくなったときには、今年度上半期ベスト・ワン!とからだがぶるぶるするほどだった。こういう映画に出会えたことに感謝、それはまた、生きていてこその体験。
──企画の発端は?
「企画の中身は原田芳雄さんからのご提案だったんです。大鹿歌舞伎を題材にしたドラマがあって、原田さんが出演された。本公演では、おひねりが飛び、掛け声が上がり、笑いが上がり、アドリブも出、自由自在に遊ぶっていう風景を、「俺達の仕事の原点はここなんじゃないのか」、いわば芸能の故郷、自分の仕事の生業の故郷みたいな強い印象を受けられた。で、「阪本、ぜひ、俺はあの舞台に立ってみたいんだよ」って。しかも景清の役、と演目も限定されていて、最後に目をくり抜く景清をやってみたい。で、こちらはそこからいろいろ調べ、追求していった。そのうち脚本の荒井晴彦さんから、幼馴染みと駆け落ちした妻が突然帰ってくる、その事件性で物語を作ろう、となった」
──実際の村も特徴があると。
「村歌舞伎について調べてみると、江戸の禁止令が出ても役人の目を盗んで上演したりだとか、戦争中も兵隊にとられて男衆がいなくなっても、それでも絶やさないために女だけで続けてきたとか、そうやって三〇〇年抵抗しながら続けてきたことがわかった。そういう譲らなさがある一方で、他方、来るもの拒まずの精神がある。外国の方もけっこう住んでいたりする。そんなところだからこそ、これ、どの村でも良かったって話ではないんです。この村だから芳雄さんはああいうキャラクターにすることができたし、テンガロンハットにサングラス姿でも違和感なくとけこんでしまう」
阪本順治
──〈演じる〉がひとつのキーとしてある、と。
「芳雄さんの台詞では〈変身〉って言葉を使っていますけど、他者を演じることがいかに楽しいか。芳雄さんがいつも云ってらっしゃる、『真剣に遊ぶ』。だから芳雄さんも[奥さん演じる]大楠さんも、歌舞伎の演技については向こうの方にお稽古をつけてもらったのですけど、もう楽しくてしょうがない。決められた所作なのですけど、そこに自分のかたちをはめていくっていうのがこんなに面白いのか、って。そういう風に皆さん辛そうでしたけど口々に言っていましたね」
──その〈演じる〉ことも含めて、このなかで扱われている様々な動き、要するに映画そのもの。誰かが誰かを演じ、そして何か葛藤があり、あるいは恋がある……。
「まあ映画はなくても人は生きていけるのでしょうけど、やっぱちょっと芸能と寄り添うことによって、暮らしが豊かになったりするのだな、というのを改めておもいましたね。本公演を観てもね」
──ごくわずかであるにもかかわらず、印象的なのが三國連太郎が山をバックにお墓へと歩いてゆくシーン。背後の紅葉とマフラーとがみごとにシンクロしています。
「あのー、人の映画を観ているようでした(笑)。こっちは若いスタッフで、『なんか映画を観ているみたいだね』って」
──この映画、ひとりひとり、すべての役者さんが〈立って〉います。
「架空のキャラクターをやっていただいているんですけど、本心が出ているんですよね、その人たちの。三國さんの涙だって全部そうだし、作ったものではない。キャラクターはそれぞれですけど、その役者さんの本心が出ている。そんな気がしました。だからそれを抑制したり不用意に触っちゃいけない、って」
──エンディングに《太陽の当たる場所》が。
「僕は元々、主題歌のある映画って昔から好きで。最後の主題歌を付けるのは全然嫌ではないんです。ただ、タイアップってことが多いんで、そこで悩むんですよ。この映画については、ある種の不良性と情緒を持っていらっしゃるのと、遊び心を持っていて……そう考えていくと忌野清志郎さんに自然にいきつきます。芳雄さんの世代、あるいはもっと若い世代にも人気のある人ですし。清志郎さんの歌を延々聴き続ける毎日。皆が知っているポピュラーな名曲からRC時代の曲もみんな。画面が暗転してエンドクレジットが流れる、そこにどんな歌声と歌詞が寄り添ってもらえるかで映画の読後感は変わる。それぐらい大事なんです。本当の意味でのラストシーンですから。『太陽の当たる場所』を見つけた時は、神が降りて来たような気がしました。出会うべくして出会ったのです」
映画『大鹿村騒動記』
監督:阪本順治 脚本:荒井晴彦/阪本順治
出演:原田芳雄 大楠道代 岸部一徳 松たか子 佐藤浩市
主題歌:忌野清志郎「太陽の当たる場所」
7/16(土)全国ロードショー