『NME』『MELODY MARKER』『Rockin' on』『CROSSBEAT』など、国内外問わず数多くの音楽誌でロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ〈現場の人〉久保憲司氏が、ロック名盤を自身の体験と共に振り返る週間日記コラム。今週は、最後まで音楽を愛し続け、無名のアーティストを誰よりも紹介してくれたジョン・ピールについて。
2004年10月30日(土) V.A.『FabricLive 07』
ジョン・ピールが亡くなった。65歳の若さで。バグルス、アート・オブ・ノイズなどを輩出したレーベル、ZTTの元オーナーでぼくの尊敬する音楽評論家ポール・モーリーも追悼文で「ジョン・ピールは永遠にジョン・ピールだろうと思っていたのに……」とその悲しみを伝えていた。
ぼくもジョン・ピールは永遠にジョン・ピールだと思っていた。はっきり言ってしまうと、もう15年くらい前からジョン・ピールが紹介したアーティストが商業的な成功を収めた例はほぼなく、そういう意味ではジョン・ピールの価値はなくなっていたのかもしれない。でも、たとえ彼がグラストンベリー・フェスティヴァルの司会でサッカーの中継しかしなくなってもジョン・ピールはジョン・ピールなのだ。ジョン・ピールがそこにいるだけで、「ぼくも彼のように音楽を一生愛し続けよう」と思う。あのロンドンの汚くて雑多なラフ・トレードのお店と一緒だ。音楽産業が衰退しているとか、そんなことはぼくにとってどうでもいい、あそこにいけば一生懸命音楽を作って愛している人たちがまだまだたくさんいると感じられるのだ。こうして書いているだけで涙があふれてくる。
ジョン・ピールは数々の無名のアーティストを誰よりも紹介し、サポートしてきたとされている。しかし、本人はあっさりとそれを否定している。「売れたアーティストもいるし、売れなかったアーティストもいる。だからぼくは何もしていない。アーチストがよかった、頑張っただけだ」。泣ける。あのほんわかしたカントリー・ブルースのテーマ・ソングや、人なつっこそうなジョン・ピールのリヴァプール訛りの声がもう聞けないのは残念だけど、グラスンヴェリー・フェスティバルの新しいアーティスト用のステージ、ニュー・テントはこれからジョン・ピール・テントと呼ばれることになったのだそうだ。ジョンはいつまでもぼくたちのそばにいる。ぼくたちが音楽を愛する限り。
15年前くらいからジョンの価値がなくなったと書いたけど、その理由は「商業主義、金儲け主義の人間が身近に寄ってくることを嫌ったから」だと思う。ぼくにもそういうところがあって、そのせいで音楽業界と距離を置いてしまう。そうしないと、いつまでも音楽を好きでいられない、仕事は少なくなってもいい、ぼくは音楽のそばにいたいだけなのだ。レコード屋さんに行って、面白そうなCDを買って家に帰って聴く。それだけで幸福なのだ。ジョン・ピールもそうだったと思う。グラストンヴェリーのバックステージで孫か子供を横につけて新聞を読んでいる彼の姿を見て、ぼくもそうありたいと思っていた。日本でも誰かジョン・ピールみたいな人が出てきたらいいのに。がんばれ、ジョン・ピールは戦ったよ。
ロッド・スチュアートのバックで楽しそうにマンドリンを弾くジョン・ピールの写真を見たことがある、今頃天国でいろんな人とセッションしてるのかな。ださいなこの書き方、でもジョン・ピールにはそうあってほしいと本当に心から願う。
BBC TVの音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』の司会をたまにジョン・ピールがやることがあったのだけど、その時はどんなトップ・オブ・ザ・ポップスよりも良かった。ぼくの一番好きなバンド、シアター・オブ・ヘイトもあなたがいなければトップ・オブ・ザ・ポップスになんか絶対でれなかった。そして貴重なシアター・オブ・ヘイトの映像が今残っている。ありがとう。
最後にジョン・ピール・セッションについても一言。イギリスのラジオ局では、新人バンドにレコーディング・スタジオを貸してくれたりする。売れてないインディ・バンドにとってはこれがいいデモ・テープ作りや、ホンチャンのレコーディングのプリ・プロ(注:プリ・プロダクションの略。レコーディング前の最終調整のこと)として重宝されていた。そういうのが今ジョン・ピール・セッションとしてリリースされているのだ、けっして一発取りのライヴではない(そういうのもあるけど)。CDになる前の、荒削りだけど加工されていない〈アーティストそのまま〉の姿をとらえたいい音源がたくさんあったるするのだ。