『NME』『MELODY MARKER』『Rockin' on』『CROSSBEAT』など、国内外問わず数多くの音楽誌でロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ〈現場の人〉久保憲司氏が、ロック名盤を自身の体験と共に振り返る週間日記コラム。今週は先日リリースされたニルヴァーナのボックス・セットについて。
2004年12月6日(月) Nirvana『Nirvana Box~With The Lights Out』
ついに出ましたニルヴァーナのボックス・セット。レクエイムのように聴こえてしまうのかなと思っていたのですが、実際に聴いてみるとニルヴァーナの歴史の裏側と真実をCD3枚+DVD1枚でリアルに堪能した感じがしました。
一番感動し、驚いたのはやはりDVDの映像。クリスの家で撮られた88年当時のライヴのランスルー(注:本番と同じセット、進行で行う最終リハーサル)をクリスの兄弟が完全にビデオに収めていて、結成初期のニルヴァーナのライヴがどういうものだったのかを把握することができます。そして、既に彼らのライヴが完成されていることに驚かされてしまいます。
ニルヴァーナも初期の頃は無軌道なパンク小僧だったのだろうと思っていたのですが、家でのリハなのにランスルーをちゃんとライヴのステージと同じ位置でやっている。カートはドラムの位置を確かめた上で自分の立ち位置を把握して歌ったりしている。だから仕方なくずっと壁に向かって歌っているのだが、それが後にどんど んと自分の内面へ内面へと向かうカート自身を象徴しているかのようで、ちょっと悲しいです。
でも本当によく完成されてる。クリスのベースもカートの声もギターも。初期の頃カートはよくドラム・セットにダイビングして、その理由を「(当時の)ドラマーが嫌いだったから」と語っていたけど、ドラマーも悪くないんだよな。人気バンドになるのがよく分かる。
そして〈人間というのは才能なんだなあ〉と、このボックス・セットを聴いて痛感させられた。日常の断片や記憶やちょっとした思いを口ずさむだけで、それが何百万人もの人の心に触れる共通言語として機能するその才能が、初期の音源を聴くだけで伝わってくる。というかそれがブルースでありポピュラー・ミュージックであった。カートがその辺のことを意識していたから、レッドベリーやヴァセリンズがやっていたような古い宗教ソングに興味を示していったんじゃないだろうか。
そしてそれをどう発展させようとしていたのか? 今となってはもう分からない。REMのマイケル・スタイプと一緒にアコースティックなアルバムを作ろうとしていたみたいだが。でもぼくがみんなに忘れてほしくないのはカートの内面に入っていった世界よりも、ニルヴァーナというバンドは最高のダンス=ロックンロール・バンドだったということだ。あの強弱のある展開の曲はダンス・ミュージックが人を踊らせる方法そのままだ。悪く言えばアシッドやっている時にあの強弱が気持ちいいということなんだけど。
アメリカの低所得者、レッドネックの子供達がビールより安いアシッドをキめて七色に光った景色を見ながらも、そこは昔ヒッピーたちが夢みた別世界ではなかった。やはり荒廃したアメリカの郊外でしかなかった。彼らにはパンクという一度挫折した思想があった、挫折してようが何だろうがそれにすがるしかなかった。グタグタだけど本当のことを歌おうとした。そして歌ったのがニルヴァーナだった。本当のことを歌うのは疲れる。だからカートは休みたかったのだろう。でも、歌を強要する声が外からだけでなく自分の内側からも聞こえてくる。だからカートはああいう道を選んだのだと思う。このボックス・セットはやはり“All Apologies”で終わっている。これは太宰治の「生まれてきてすみません」と同じだ。テレビでは芸術家がよく「この作品は宇宙と人間の融合だ」とか、「人類の自然破壊に対する警告だ」とか自慢げに喋っている。むかつく。芸術家はどこかに〈すみません〉という気持ちがないといけない。
カートはどこかで隠遁生活を続ければよかったのかもしれない。でももうどこにもいない。それでよかったのかもしれない。素晴らしい歌い手が亡くなっただけなのだ。フランク・シナトラが、エルヴィス・プレスリーが、ジョン・レノンが亡くなったのと同じだ。パンク世代の生き残りからただ一人、時代の声となった少年がその後どうなったのか見たかったような気もする。このボックスにはヒントがあるようで、何もないかのようでもある。それでもぼくはまたCDのボタンを押す。