『NME』『MELODY MARKER』『Rockin' on』『CROSSBEAT』など、国内外問わず数多くの音楽誌でロック・フォトグラファーとして活躍、さらにロック・ジャーナリストとしての顔も持つ〈現場の人〉久保憲司氏が、ロック名盤を自身の体験と共に振り返る隔週コラム。今回は、新作『At War With The Mystics 』をリリースしたばかりのフレーミング・リップスについて。
Flaming Lips 『At War With The Mystics』
現在のアメリカにおいて、若く頭の切れる、急進的かつ熱狂的でヒッピー志向のある、ドラッグ文化を享受するアングラ層の中から、おびただしい量の形而上学的パラノイアが途切れなく流れ出す現象が起きている。そのパラノイアの叛乱は、肥大したジョージ・W・ブッシュの邪悪な権力、そしてこれまた誇張されて伝えられている幻覚系薬物―主にエクスタシーとLSD―のもたらす慈愛に満ちた恩恵という、常にこのふたつを中心に巻き起こっているといってほぼ間違いない。
だからヒッピーたちは世の中を変えようとホワイトハウスのトイレの消臭剤をエクスタシーに変えた。自分の小便の跳ねっ返りとともにエクスタシーを浴びた政治家達はハイになり、世の中は平和になるだろうとヒッピーたちは思った。しかし、政治家たちは今まで以上に自分たちのエゴを増幅させ、彼らは神秘主義者になったのだ。こうして『At War With The Mystics(神秘主義者との交戦)』が始まる。
……と、フレーミング・リップスの新作の中ジャケには、ウェイン・コインのむちゃくちゃかっこいい論理的背景が書いてある。これを読む前から今作はロック・オペラかと思ったのだが。残念ながらそういうことはない。でも、聴いていると前作よりもいろんな想像が膨らむ。今作は音的には今までのアルバムよりもソウルな感じなんじゃないだろうか。それが新しいパワーを生んでいると思う。今までもトッド・ラングレン的な、70年代フィリー・ソウルを感じさせるやさしさが気持ちよかったけれど。
フレーミング・リップスを聴くとぼくは泣いてしまう。前作『Yoshimi Battles The Pink Robots』に収録されている表題曲“Yoshimi Battles The Pink Robots”を初めて聴いたのは飛行機の中だった。〈日本のどこかの田舎で、いつか攻めてくる悪いロボットと戦うために、一人の少女が一生懸命空手を習っている〉という歌。そのモデルがあのボアダムスのヨシミちゃんというのもよく分かる。本当に何かのために、コツコツと努力して生きているという自分の気持ちが重なってもうボロボロ泣いてしまった。こうしてフレーミング・リップス・ファンは増えていくのだろうな。
フレーミング・リップスのドキュメンタリーDVD『Fearless Freaks』を見て思ったんだけれど、ウェインは6人兄弟だった自分の家族がバラバラに離れていくのが嫌だったのじゃないだろうか。近所の仲間たちとバラバラになるのも。だからウェインはバンドを組んだのだろうし、彼らのコンサートは集会のようになっていったのだろう。ウェインと同じ80年代ニューウェイヴ小僧だったぼくには、全てを同時再生しないとアルバムが完成しないという奇抜な4枚組『Zaireeka』も「そんなアイデア80年代によくあったよ」と鼻についていた。だが、ウェインの性格を考えれば、それは〈一人で遊んでいてもおもしろくない〉という意思表示だったのだろうと思う。
ぼくが今一番観たいのは、フレーミング・リップスのコンサートだ。みんなが縫いぐるみを着たり、紙吹雪をまき散らかしたり、シンガーが頭から血を流していたり。それはハプニングでもなんでもない。ウェインが体験したことや感じたことをぼくらは共有したいんだ。それはこのアルバムと同じ。だからフレーミング・リップスをぼくたちはアート的に感じるんだろう。P-ファンクもそういうライブをやっていた。今そんなライブが出来るのは、フレーミング・リップスだけなのかもしれない。サマーソニックが楽しみだ。お金があったら海外にも観に行こうと思う。とくに地元オクラホマで観たい。
初期のリップスはサイケデリック・ファーズやエコー&ザ・バニーメンに夢中だったと語っていたが、ぼくはジーザス&メリーチェインからの影響を強く受けていたと思う。そして、彼らが実験的になっていったのは、マイ・ブラッディ・バレンタインの影響だろう。そんなバンドがグラミーをとるまでになったのは、ウェインのお母さんが言うように頑張りでしかなかった。そしてフレーミング・リップスの美しいまでのやさしさは彼らの周りの努力しなかった人、努力してもダメだった人たちまでの気持ちまで全て背負い込んでいるからなのだろう。だからぼくはフレーミング・リップスを聴くと涙が出るのだ。