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第46回――煙のなかのグレッグ・ペリー

連載
IN THE SHADOW OF SOUL
公開
2010/06/21   19:54
更新
2010/06/21   19:58
ソース
bounce 321号 (2010年5月25日発行)
テキスト
文/林 剛

 

デトロイト・ソウルの作法と魂を西海岸に伝導した名匠を振り返る

 

デトロイトにおけるモータウン帝国が崩壊しはじめた60年代後半、その黄金期を支えた才能豊かなミュージシャンたちも各々の道を歩みはじめた。モータウンに反旗を翻し、デトロイトに留まってホット・ワックス/インヴィクタスを興したホランド=ドジャー=ホランド(H=D=H)もそうしたチームだったが、今回は彼らの側近として活躍したグレッグ・ペリーに光を当てたい。無骨にして躍動感のあるノーザン・ソウルのグルーヴを70年代に復興させ、デトロイトのソウル・シーンを熱くした男である。

こう書くと生粋のデトロイト人と思われそうだが、グレッグの生まれはイリノイ州アルトン。その後ノースダコタ→パームスプリングスと移住、17歳の時に兄弟とNYに渡って、そこでモータウン関係者と繋がるのだが、ここでもすぐにデトロイト行きとはならなかった。ちなみに、彼の兄弟たちも後に音楽業界で活躍し、うちジェフ・ペリーはジェフリーの名でレコードを出して人気を集めている。

そのNYでは、初期モータウンの裏方だったおじのもとで音楽修業を積み、スーでJJ・ジャクソンとコンビを組んで仕事をしていたというグレッグ。その後にチェスと繋がり、チャールズ・ステップニーとも仕事をしていた彼は、ロータリー・コネクションの“Turn Me On”(67年)などでペンを交えることに。さらに自身もチェスからソロ・デビュー。この頃の曲を聴くと、男臭くも繊細なグレッグらしい作風がすでに開花していたことがわかる。

デトロイトに向かったのはその後のこと。おじがH=D=Hのブライアン・ホランドと知り合いだったことでモータウンのスタッフとして採用された……はずが、時を同じくしてH=D=Hがモータウンを離脱。そこでグレッグは彼らと同じ道を歩む決心をし、ホット・ワックス/インヴィクタスの裏方として活動を始めるわけだ。同社ではチェアメン・オブ・ザ・ボードのジェネラル・ジョンソンらと組み、ハニー・コーン、100プルーフ、フリーダ・ペイン、フレイミング・エンバー、ローラ・リーらの作品に関与。ハニー・コーン“Want Ads”のレコーディング時には、リードのエドナ・ライトが倒れる寸前まで何度も歌わせたという、完璧主義者ぶりを示す逸話も残されている。

一方でグレッグは、そんなエドナと恋人関係になっていた。ゆえに(?)ハニー・コーンが解散すると彼も同社を去り、西海岸のミュージシャンと交流を図りながら、75年にはカサブランカから自身のソロ・アルバム『One For The Road』を発表。77年にはRCAから次作を出し、ここでは妻となったエドナのソロ作にも全面的に関わっている。80年代に入ってからもメアリー・ウェルズやボニー・ポインターを手掛け、82年には自身のシングル“It Takes Heart”も発表。活動拠点は西海岸となっても、常にノーザンの薫りを楽曲に持ち込み、デトロイトの気風を失わなかったのはグレッグのこだわりでもあったのだろう。デトロイト・ソウル屈指のサウンドメイカーに改めて注目したい。

 

▼現在は入手困難な重要盤を紹介

左から、グレッグ・ペリーの75年作『One For The Road』(Casablanca)、100プルーフ・エイジド・イン・ソウルの70年作『Somebody's Been Sleeping In My Bed』(Invictus)

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