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第55回――涙のディスコティック

連載
IN THE SHADOW OF SOUL
公開
2011/08/24   00:00
ソース
bounce 335号 (2011年8月25日発行)
テキスト
文/林 剛


フィリー・ソウルの本道を次代に繋いだジョン・デイヴィスの功績とは?



フィラデルフィア・ソウルの裏方といって思い浮かぶのは、やはりギャンブル&ハフ、トム・ベル、それにMFSBのノーマン・ハリスやロニー・ベイカーあたりだろう。そうしたなか、MFSB周辺でサックス奏者、鍵盤奏者、アレンジャー、プロデューサー、ソングライターとして活動しながら、彼らの陰に隠れていたアイルランド系の名裏方がいる。それが今回の主役=ジョン・デイヴィスだ。

〈涙のディスコティック〉の邦題で知られるフィリー・デヴォーションズ“I Just Can't Say Goodbye”を手掛けた奇才。いや、それよりも、ジョン・デイヴィス&ザ・モンスター・オーケストラを牽引した人物と言ったほうがわかりやすいだろうか。70年代後半、同オーケストラのレコードを発表しつつ、アシュフォード&シンプソン関連のセッションに参加し、ダイアナ・ロス『The Boss』などで管弦アレンジを手掛けた彼の華やかなディスコ仕事は、ガラージ・ファンにはよく知られるところだ。

改めてクレジットを見直せば、スタイリスティックスやソウル・サヴァイヴァーズなどの作品にサックス奏者やアレンジャーとして参加していたジョン。が、その出世仕事といえば、ウィリアム・デヴォーンの74年作『Be Thankful For What You Got』におけるプロデュース/アレンジだろう。もともとジョンは、同アルバムを仕切っていたフランク・フィオラヴァンティが主宰するオメガ・プロダクション(シグマ・スタジオに対抗?)のスタッフとして活動を開始。その後、フィリー・デヴォーションズ一派のBry-Wekプロダクションズに籍を置き、MFSB周辺でもトランプスのサポート・メンバーとして活動することになった。が、70年代中期、MFSBの主要メンバーがギャンブル&ハフの元を離れ、ヴィンセント・モンタナ率いるサルソウル・オーケストラに鞍替えすると、それに刺激を受けたのか、ジョンも自身のモンスター・オーケストラを立ち上げ、軽快かつ華麗なフィリー流儀のサウンドで、所属したサムのレーベルメイトなどのバッキングを手掛けていく。

こうしてディスコの世界に本格的に足を踏み入れた彼は、サルソウルのセッション(エディ・ホールマンやチャロなど)にも参加し、さらにRCA傘下のミッドランド(〜ミッドソング)・インターナショナルでもキャロル・ダグラスやシルヴァー・コンヴェンション、ジョン・トラヴォルタ、タッチ・オブ・クラスらの作品をプロデュース/アレンジ。まさにフィリー・ソウルをディスコ・サウンドに変貌させた、その首謀者とでも言うべき存在が、このジョンだったのだ。

よって、フィリー・ソウル側からすれば、ギャンブル&ハフが過度なディスコ化に待ったをかけたように、ジョンの作る能天気とも言えるダンス・サウンドは歓迎されるものではなかったかもしれない。だが、リズムが躍り、ホーンやストリングスが鮮やかに鳴り響く、そのめくるめくグルーヴにはやはり抗し難いものがある。彼が作った曲をディミトリ・フロム・パリらのDJが何度も紹介してしまうほどに。そう、〈ガラージ〉という価値基準が生まれてから、ジョン・デイヴィスのサウンドは永遠のものとなったのだ。



▼関連盤を紹介。
左から、スタイリスティックスの73年作『Rockin' Roll Baby』(Avco)、トランプスの77年作『Disco Champs』(Philadelphia International)、キャロル・ダグラスの77年作『Burnin'』(Midland International/Unidisc)

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