1971 年の中津川で、泣きながら《赤色エレジー》を歌うあがた森魚を観たキングレコードの若きディレクターの三浦光紀氏は、その《赤色エレジー》を、自身が設立したベルウッド・レコードの第一弾シングルとして発売。一方、いち音楽好きとして中津川に居合わせていた当時23歳の和田博己青年は、帰京後にはちみつぱいに加入、その《赤色エレジー》でバックをつとめることになる。その和田氏が語る、ベルウッド・レコードがあった時代の思い出。それにしても、40年も前の話なのに、細かいことまで良く憶えてらっしゃる!
ベルウッド・レコードは、1972年に、入社してまだ4年目という若きディレクター、三浦光紀によってキングレコード内に設立された、日本初のメジャー系独立レーベルである。
フォーク・ロックの専門レーベルとして誕生したベルウッドは、多彩なアーティストを抱えて、正味で言えばほぼ4年間という短い期間だったが、数多くのオリジナルアルバムを発表した。ちなみに全盛期の73年には何と13タイトルものアルバムをリリース。つまりは毎月のように新譜が発売されていたわけである。これは当時の新進レーベルとしては異例とも言えるリリース数の多さだ。
では、ベルウッド・レコードが登場した70年代初頭はどんな時代だったのか。
まず、1969〜71年にかけての3年間に、中津川の椛の湖畔にて『全日本フォークジャンボリー』が開催されている。出演したのはURCレーベルを中心とするアンダーグラウンドやサブカルチャーを代表するミュージシャンとその予備軍たちだ。

今回の再発プロジェクトの総監修は創設者の三浦光紀氏。小室 等や六文銭、高田 渡、遠藤賢司、はっぴいえんど、そしてはちみつぱいに至るまで、幅広いミュージシャンの作品をリリースし、ニューミュージック全盛期の70年代に多彩かつ独自のタイトルを擁したベルウッド・レコードのカタログから40タイトルを発売。うち11タイトルは初の紙ジャケ仕様としても発売される。全タイトルとも最新デジタル・リマスター。
ベルウッド・レコードがあった時代
第1回目は69年の8月9日~10日に開催されたが、これは同年の8月15日~17日に開催されたウッドストック・フェスティバルにも先んじた、今日の野外大規模コンサートの先駆けとなる一大イヴェントだった。最も大きな盛り上がりを見せた第3回目(1971年8月7日~9日)では、三浦光紀はキングレコードの社員として、当時23歳のぼくはいちフォーク・ロック・ファンとしてそこで同時にステージを観ていた。その時三浦光紀氏は、泣きながら《赤色エレジー》を歌うあがた森魚にたいへん驚き、東京に帰ってからベルウッド・レコードとの契約を申し出ることになる。ぼくはといえば、あがた森魚のバックで演奏していた3人組(はちみつぱい)を気に入り、さらにその後サブステージで、はちみつぱいだけの演奏を聴いて感激(CS&Nとグレイトフル・デッドを合わせたような摩訶不思議なサウンドだった)、東京に戻ってから、ベーシストとしてはちみつぱいに入れて欲しいと無理やり頼み込んだのだった。
ベルウッド・レコードのリリース第1弾は、1972年4月25日発売の、あがた森魚『赤色エレジー』と友部正人『一本道』の2枚のシングル盤、そして六文銭のアルバム『キング・サーモンのいる島』だったが、いきなりあがた森魚の『赤色エレジー』が30万枚から40万枚というヒットを記録。ベルウッドは幸先の良いスタートを切ることができた。
この第1弾シングル『赤色エレジー』のバックで演奏しているのははちみつぱいだが、『赤色エレジー』が大ヒットしたおかげで、ほぼアマチュアバンドだったはちみつぱいは(ディランのバックを務めたザ・バンドのように)、あがた森魚のバックバンドとして突如多くのコンサートに出演するようになり、地方公演やツアーまでこなすという多忙なバンドとなった。したがって、つい昨日までミュージシャンとしてはずぶの素人だったぼくも、生まれて初めて本物のエレクトリックベースを買った直後にはもうプロとなってレコーディングを経験、ツアーまでこなすという、あり得ないようなことがこの身に起きた。