NEWS & COLUMN ニュース/記事

Bellwood Records(1972-1978)

Bellwood Records(1972-1978)/2

公開
2012/10/10   18:58
ソース
intoxicate vol.100(2012年10月10日発行号)
テキスト
文/和田博己

そのあがた森魚のデビュー・シングル『赤色エレジー』が発売されたのと同じころ、エレック・レコードから古井戸のアルバム『古井戸の世界』が発売されているが、はちみつぱいはこの『古井戸の世界』でも5曲ほど演奏している。しかしインディペンデント系のエレック・レコードでの録音はいささか大変だった。

ある日、はちみつぱいが練習していたスタジオに電話がかかってきた。今日の夜、エレックの新人のレコーディングがあるので、これから来てもらえないか、という依頼だった。「えっ、これから!」いささか面食らったが我々は楽器を持って録音スタジオを訪れた。

まず誰がディレクターか皆目分からない。やがて古井戸の2人が挨拶に来たので、「どんな曲を演るのか? 譜面を見せて下さい」と言うと、「譜面はありません」。でも、それじゃ演奏できないので、可愛らしいほうの彼(仲井戸麗市)にギターで演奏してもらい、押さえたコードをメンバーの武川(ヴァイオリン担当)が速攻で紙に書き記す。終わると「じゃあ少し待ってください」と古井戸の2人に言って、15分ほどでリズムパターンとイントロと間奏とエンディングを決め、テーマのメロディも必要なら作って、「お待たせしました。テンポはどのくらいかな? では演ってみましょう」という感じで2~3テイク録って、「はい、これでいいでしょう」。1曲録り終えたころに、泉谷しげるがふらりと現れ(凄くいいやつだけど)なにやらわけのわからないことばかり言う。泉谷は「俺がディレクターだ」と言っていた気がするが、泉谷のことは無視して何とか全曲録り終えたのが深夜の2時頃。帰りの電車はもちろん無いし、タクシー代も足りないしで、朝まで近くの居酒屋で飲んでいた、という時代だった、あの頃は。

三浦光紀のディレクター魂

翌1973年になると、はちみつぱいも唯一のアルバム『センチメンタル通り』をリリースするが、このレコーディングではちみつぱいはベルウッドに対し、ずいぶん多くの我儘を言いまくった。

まず、はちみつぱいは使用する楽器の数がたいそう多く、さらにダビング回数も多い。となると、どうしてもキングのスタジオにある8トラックのテープレコーダーではトラック数が足りない。つまり16トラックのテープレコーダー必要なのだが、当時16トラックのテレコが置いてある貸しスタジオは、目黒のモウリ・スタジオくらいだった。録音エンジニアも16トラック録音に慣れていて腕の立つ人がいい。そこでぼくはビクター・スタジオの録音エンジニア、梅津達男さんに白羽の矢を立てた。はっぴいえんどの『風街ロマン』は吉野金次さんの録音で有名だが、大瀧詠一のボーカル曲のみ近藤むさしという人が録音している。この近藤むさしが実は梅津達男さんで、ビクター以外での仕事では本名が使えない為、大瀧詠一が近藤勇と宮本武蔵を足して2で割り「近藤むさし」とクレジットしたのだった。ぼくたちもさすがに梅津達男はまずいということで、アルバムには「佐賀次郎」とクレジットした。

それにしても、録音はキングのスタジオではなく、16トラックのテレコのある外部のスタジオで。録音エンジニアもはっぴいえんどみたいに外部の人間に依頼したい、といった新人バンドにあるまじき我儘な願いを全て聞き入れてくれた三浦光紀さんには深く感謝するほかない。レコーディングスタジオも、田町に完成したアルファ・スタジオに決まった。このスタジオは、当時日本では最高の設備を誇り、このスタジオからは荒井由実やティンパンアレー、YMO等の幾多の名盤が生み出されたが、一番最初にこのスタジオで録音したのはベルウッドのはちみつぱいだった。

梅津さんは9時から5時まで青山のビクタースタジオで仕事をした後、ほぼ2週間に渡って田町のアルファ・スタジオまでやって来て、18時から深夜まで録音とミックスをやってくれた。その仕事ぶりは超人的と言わざるを得ない。三浦さんはもちろん、梅津さんにもたいへんに感謝しています。

『Bellwood 40th Anniversary Collection』 CD全51タイトル同時発売


記事ナビ