プロジェクション・マッピングは音と映像の関係を再構築し得るか?
いや、もうすごいッスよ、と編集の小林さんは私の耳元でささやいた。じっさいは電話だったが、彼はこうつづけた。「まっしろなキューブに映像を投射するんですが、それがスンゴイんです」といわれて、私はトニー・アウスラー的な、もしくは大友良英の「quartets」みたいな作品かと訊ねたがそれらともどうもちがうという。音楽もそうだが、映像を言葉で伝えるのはむずかしい。とくに、筋書きではなく、映像そのものに内在する特異な部分を。
そこで『ISAM LIVE』を送っていただいた。この映像盤はブラジル出身、英国在住のビートメイカー、アモン・トビンの、サウンドトラックやリミックス盤をいれて8作目にあたる『ISAM』のライヴ・ステージを収めたものだが、フィールド・レコーディングしたマテリアルを縦横に編みあげたあのアルバムをパフォーマンスの場に移植するにあたり、彼はライヴにあたり誰もが考える再現性、娯楽性を、これも誰もが考える、映像の助けを借りて、しかし誰も思いつかない次元にひきあげている。
『ISAM LIVE』は、舞台正面に対し角度をつけ、奥行きをもたせながらランダムに積みあげた方形のキューブが光に点滅し一瞬だけみえる、と思う間もなく、その全面をデジタル・ノイズに同期したライトが走り、やがて『ISAM』の1曲目《Journeyman》がはじまるころにはそこには白煙が漂うのだが、あたかも舞台に焚かれたスモークと思われた煙はじつはキューブに投影された映像であることは、それらが不規則な動きをしながらも、キューブの置かれた場所の外に出ないことでわかる。つまりここにはフレームがある。というか、躯体、構造がそのままスクリーンの役割をはたす。ところが、前述のように、このスクリーンはフラットでないだけでなく、秩序のない、逆にいえばフラクタルな設え方なので、映像は2次元と3次元と現実(3+1次元)の間で宙吊りになるような錯覚を、見る側はおぼえる。視覚のトリック、だまし絵ともいえる映像の意図を周到に植えつける手法はみごというほかない。音楽と映像はあたらしい関係に入ろうとしている、かにみえる。サウンドトラック、マルチメディア(死語?)、VJなど、分野も手法もちがう従来の映像/音楽作品にはどうしても主従関係があるか、完全に平等な作品はかえっておもしろくなった。アール・ゾイドでもビル・フリゼールでもいいが、無声映画に音をつける作業は「無声」という欠落が前提にあり、映像を解釈し、映像から喚起された音楽はそれを補うために映像に同期した。あるいは、宥和したといってもいいその均衡点から、逆説的にサウンドトラックは「架空の」というクリシェを派生させ、音楽と映像は主従関係をひきずったままとどまっている。
例外的に、たとえば、私の知人は2007年のバルセロナの〈sonar〉フェスでコーネリアスの『Sensuous Synchronized Show』をみた観客が「あれは反則だろう」と呟いたのを聞いたというが、ヨーロッパの観客の驚きは(ヒューマン)エラーを潜在させた身体を映像と寸分もたがわず同期させたコーネリアスのアクロバティック(サーカス的)なライヴが、音楽と映像との旧来の関係を転倒させたことによるにちがいないが、同時に、いくらかでも「日本的」という言葉を言外に置いた、逆ガラパゴス状態、まさに例外化への誘い水があったのもいなめない。ともあれ、現在の音楽と映像との近くて遠い隔たりを埋める(それがほんとうに必要かはさておき)には有機的であれ曲芸的であれ、ある種の異形たらざるをえないことは『ISAM Live』の視覚を動揺させる映像が訴えている。その大元になる映像技術はプロジェクション・マッピングという立体に映像を投射する手法なのだが、このDVDでくりひろげる映像世界が視覚効果的な、広告的な、SF的(アモン・トビンは『ISAM LIVE』で宇宙船のコクピットでプレイする恰好で舞台装置に組みこまれている)な定型から脱皮して、技術を内破させる中身をそなえるには次の一手を待て、ということだろうか。
AMON TOBIN『ISAM LIVE』が日本にやってくる!
『electraglide2012』
11/23(金・祝)21:00開演 会場:幕張メッセ
11/24(土)21:00開演 会場 大阪ATCホール
出演:アモン・トビン"ISAM"、フライング・ロータス、スクエアプッシャー、フォーテット、アンドリュー・ウェザーウォール、KODE9、電気グルーヴ、DJクラッシュ、DJケンタロウ、 高木正勝ほか
www.electraglide.info
©Miguel Legault
©Frazer Waller