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フラワー・トラベリン・バンド、スピード・グルー&シンキなどニューロック期のアルバム9作が再発

再評価高まり、海外でも注目されている日本のロックの黎明期「ニューロックの夜明け」2017年リマスターで登場。

■フラワー・トラベリン・バンド『SATORI』
オリジナル発売:1971年

■フラワー・トラベリン・バンド『Made In Japan』
オリジナル発売:1972年

■フラワー・トラベリン・バンド『MAKE UP』
オリジナル発売:1973年

■スピード・グルー&シンキ『イヴ 前夜』
オリジナル発売:1971年

■スピード・グルー&シンキ『スピード・グルー&シンキ』
オリジナル発売:1972年

■ジャスティン・ヒースクリフ『ジャスティン・ヒースクリフ』
オリジナル発売:1971年

■柳田ヒロ『七才の老人天国』
オリジナル発売:1971年

■羅生門『インディアン、死よりも赤を選ぶ』
オリジナル発売:1972年

■ロック・パイロット『みんなのアイドルTVマンガ大行進!!』
オリジナル発売:1972年


【フラワー・トラベリン・バンド】
1970年初頭、日本のロックの黎明期といわれていた当時、まったく独自のコンセプトで海を渡ったバンド、それがフラワートラヴェリンバンド(F.T.B.)である。
1970年、内田裕也プロデュースにより、フラワー・トラヴェリン・バンドが誕生。同年、アルバム「ANYWHERE」発表し、その後開催された大阪万博のライヴ・ステージで共演したカナダのロックバンド、ライトハウスに誘われ、12月にカナダのトロントへ旅立つ。
1971年、アメリカのアトランティック・レコードと契約。アルバム「SATORI」をアメリカ、カナダでリリース。東洋的旋律を特徴とした日本のロックが、初めて世界のロックに挑戦状を提示した歴史的瞬間である。シングル「SATORI part2」がカナダのチャート8位まで駆け上る。ライトハウス、ブルース・プロジェクト、EL&P、ドクター・ジョンなど、錚々たるミュージシャンと共演する。
1972年、アルバム「MADE IN JAPAN」発表。 東京都立体育館フラワー・トラヴェリン・バンド帰国記念コンサート。
1973年、共演を予定していたローリング・ストーンズの来日が中止となる。
アルバム「MAKE UP」発表。京都円山公園音楽堂でのコンサート後、活動停止。
2007年11月25日付けで、オリジナル・メンバーによる再始動。
2008年、新アルバムのリリースとコンサート活動が行われた。篠原信彦が改めて正式メンバーとして迎えられている。
フジ・ロック・フェスティバル08に参加し、9月にアルバム『We are here』をリリース。併せて全国7か所でアルバムツアーが行われた。
海外では、今なお評価が高く、2008年11月にニューヨーク公演、12月にカナダ公演を行った。
2011年8月7日、ジョー山中が急逝。

【スピード・グルー&シンキ】
1971年に、元パワーハウス、フード・ブレインの陳信輝<g>、ゴールデンカップスの加部正義<b>、そして'70年代を代表するPhilippine Hard RockバンドJUAN DE LA CRUZで活躍した米国人のドラマーでヴォーカルも務めるジョーイ・スミスのトリオによる、横浜発ヘヴィ・サイケ・ブルース・バンド。同年にアルバム『イヴ 前夜』でデビュー。翌1972年には2枚組の大作『スピード・グルー&シンキ』をリリースした後、解散した。同作には陳信輝が同時進行していた“オレンジ”のメンバーだった渡辺茂樹<key>や大口ヒロシ<ds>なども参加しており、日本のロック草創期の名盤に数えられている。

【喜多嶋修(ジャスティン・ヒースクリフ)】
1949年神奈川県茅ヶ崎市生まれ。幼少時から洋楽を聴き始め15歳で従兄弟の加山雄三が結成したザ・ランチャーズにギタリストとして参加。1967年加山から離れグループとして単独で活動を始め喜多嶋が作曲し歌った「真冬の帰り道」が大ヒットを記録する。69年ランチャーズが活動を停止すると録音技術と新しいメンバーを探しに単独で英国にわたる。帰国後の71年、ランチャーズ時代、東芝スタジオのアシスタント・エンジニアだった吉野金次と共にその成果として全作自作、そしてほとんどの楽器を弾くというソロ・アルバムを制作する。その「ジャスティン・ヒースクリフ」という覆面プロジェクトは衝撃だった。特に数多くの先鋭的ミュージシャンは注目した。そのひとり細野晴臣はその録音のクオリティの高さにひかれ、はっぴえんどの『風街ろまん』のエンジニアに吉野が起用された。1974年、和楽器を習得した喜多嶋は米国に渡りアイランド・レーベルと契約、一作目『弁財天』は西と東の音楽が見事に融合されたアルバムとして世界から絶賛された。以後カリフォルニアに住み多くの作品を残していた喜多嶋のまさに原点ともいうべき作品が『ジャスティン・ヒースクリフ』である。

【柳田ヒロ】
1966年:モンキーズ・ファン・クラブ日本支部が公募したオーディションにより、小坂忠らとザ・フローラルを結成。元々はリズム・ギター担当だったが、レイ・マンザレク(THE DOORS)の影響でオルガンを弾き始める。
1968年:ザ・フローラルとしてシングルを2タイトル発表。
1969年:ザ・フローラルに細野晴臣、松本零(松本隆)が加入。バンド名をエイプリル・フールとする。「Apryl Fool」発表後に解散。エディ藩グループに参加する。
1970年:つのだひろ、陳 信輝らとフード・ブレインを結成。若松孝二監督の映画「新宿マッド」のサウンドトラックを録音(ベース:石川恵樹)。『晩餐』(ベース:ルイズルイス加部)発表後に解散。1stソロ・アルバム「MILK TIME」発表。
1971年:市原宏祐<sax>を中心にLOVE LIVE LIFEを結成、布施明を迎えてLLL+ONEとなり、「LOVE WILL MAKE A BETTER YOU」を発表。2ndソロ・アルバム「HIRO YANAGIDA(七人の老人天国)」発表。はっぴいえんどに代わって柳田ヒログループが岡林信康のバックバンドを務める。
1972年:サンズ・オブ・サン名義で『海賊キッドの冒険』発表。3rdソロ・アルバム『HIRO』発表。柳田ヒログループが吉田拓郎のバックバンドを務める。
1973年:柳田ヒログループが吉田拓郎、ガロ、ビリー・バンバン、杉田二郎のバックバンドを務める。4th「HIROCOSMOS」を発表。小室等、吉田拓郎らと新六文銭を結成。
2003年:盟友:水谷公生とのデュオ・ユニットMA-YAを結成、多くのゲスト・ミュージシャンを迎え「浮遊」を発表。その後、CMオリジナル曲の作・編曲も数多く手がける。
2010年:川村ゆうこ のライブサポートを前田達也と共に始める。
2011年:川村ゆうこ「愛は君に姿を変えて」をプロデュース。全曲、編曲を担当。

【羅生門】
1971年に元ザ・ハプニングス・フォーのクニ河内と元ザ・ハーフ・ブリードのポール湯川、元エモーションの近尾春親(近田春夫)らによって結成。同年、1stアルバム『日本国憲法』をリリース。同作はアメリカ独立宣言に曲を付けたフィフス・ディメンション「The Declaration」(1970年)の日本版と言うべきもので、 日本国憲法の第1章から第10章まで計10曲が収録された。翌72年にアメリカの先住民問題をテーマにした2ndアルバム『インディアン、死よりも赤を選ぶ』を発表し、解散。元々スタジオ・ミュージシャンによるプロジェクト的バンドで、中心人物であるクニは売れっ子として多忙で、レコーディングのみの参加に留まり、メンバーにも名を連ねていない。また、バンドとしての実体も、僅かな期間のライブ活動に限られていたという。

【ロック・パイロット】
1970年(昭和45年)、元ピーターズの中尾喜紀と矢花郁雄、元・内田裕也&フラワーズでもあり元ファニーズの中村健人、元P.S.ヴィーナスの木幡聖彦、秋本良永、吉田茂樹の6人で結成された。同年5月、東京・有楽町の日本劇場での第41回「日劇ウエスタンカーニバル」にザ・スパイダース、ザ・タイガースとともに参加した。
吉田は、翌1971年(昭和46年)1月25日のレコードデビューの前に脱退、木幡がベースにシフトし、5人のメンバーで、当時ザ・タイガースの沢田研二が作曲したシングル『ひとりぼっちの出発』でデビュー。
同年7月、アルバム『ロック・パイロット』をリリース。ライヴアクトには同じ渡辺プロ所属のアラン・メリルと組むことが多かった。また、木幡がベースにシフトしたため、後にバンドにジョインすることになる近田春夫がキーボードを弾くことがあった。
1972年(昭和47年)1月15日 - 同22日、「日劇新春ウエスタン★カーニバル」にPYGらとともに出演、その後、秋本が脱退、西亜紀人が加入したが、同年6月の東京・霞ヶ丘町の日本青年館でのライブをもって解散した。解散後、ファンクラブのためにライヴ・アルバム『LAST DEPARTURE』がリリースされた。メンバーのうち、中尾がローズマリーの結成に参加、その後は、ローズマリーの東冬木(現モト冬樹)と上原おさむとともにジュテームを結成した。

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掲載: 2017年01月06日 10:09