INTERVIEW(2)――すべての〈縁〉をグルーヴに
すべての〈縁〉をグルーヴに
例えば、新作に収録された“くぅんびあ”や“演歌艶花”などは、言わばNAOITO流の演歌なのだが、その奥には〈センティメント〉とか〈サウダージ〉とか〈ブルース〉とか〈恨(ハン)〉という言葉たちが浮かび上がる。
「世界のどこに行ってもある、センティメンタルなメロディーがある気がして。それはフラメンコやファド、ボレロやコーランのなかにも共通してあり、僕がいまいる、ここネパールにもありました。生きることの儚さを人は歌い、その瞬間を共に分かち合い楽しもうとする、とてもポジティヴなものであって、その哀感が日本で言うところの演歌かなと思いました」。
“ケンチャナヨ”は、〈屋台トリップ〉の一環として朝鮮半島北緯38度線の国境付近で歌った機会から生まれたという。
「見える境界線と見えない境界線があると思う。人間同士、また動物界や自然界とのあらゆる部分の境界を意識するきっかけになり、またそれを越えたいという思いが生まれました。ある意味、それをとてもわかりやすく象徴している場所で歌ったというのはとても貴重な出来事だったと思います。それに境界線というのは、例えば言葉の壁だったりもして、僕がそもそも打楽器にハマったきっかけもそこでした。それから、ひとりで歌を歌うようになったいまは、異国の地で何の予備知識もなく初めて出会った人に、それが1人でも10人でも100人でも、伝えようと歌うことが何よりも大切なことなんだと思ってます。〈ケンチャナヨ〉とは、韓国語で〈大丈夫〉という意味。人のこころを不安で覆ってしまうようなモノに対して〈大丈夫〉と実際に口にして大丈夫にしていこうってことです」。
最後にありきたりながら、NAOITOにとって〈旅〉とは、どのようなことを教えてくれる存在なのか訊いてみた。
「よくある質問ですね。ただ、まだ旅の最中なので質問に対する答えも変わり続けています。いまはネパールの、ヒマラヤ山脈の山のなかにある村にいるんですが、物も少なく、厳しい自然のもとに暮らす人たちは同じ人間でありながら生き物として僕ら都市生活者よりもはるかに美しく豊かであると思ってしまう。そんな人たちと触れ合い、同じ景色のなかで歌ったり食べたり歩いたりするだけで自分が浄化されていくし、自分と宇宙を繋ぐ軸が整っていく感じです。楽器で言うところのチューニングのような。だから旅とは、価値観の破壊と再構築の繰り返し、積み重ねだと思います。美しいと思うもの、正しいと思うこと、豊かさの基準やらを自分のなかで確かめていく。常に一期一会が最初で最後で、優しい人もいれば不親切な人もいます。基本的な挨拶や人との接し方から学ぶことが多いですね。そして日本を客観的に見たりもします。いまの日本は非常に危険な状態にあると思います。若い奴らにはとにかくいまのアジアを歩いて、見て、聞いて、感じてほしい。そして自分の国をどう思うのか? こんなに狭い国土にこんなにたくさんの原発があって、過去もっとも豊かだと勘違いしていた国をどう思うのか? 人間の暮らしは本来もっと血生臭いもんです。無関心など装っていられないですよ」。
縁は異なもの/袖擦りあうも他生の縁/一期一会/One Nation Under A Groove──NAOITOの歌はすべての〈縁〉をグルーヴに変え、境界線を越えて羽ばたこうとしている。
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