大萩康司
3年振り待望の新作は、没後20年を迎えるアストル・ピアソラ作品集
詩情溢れる演奏から〈音の詩人〉と称されるギタリスト、大萩康司。2010年にデビュー10周年を記念して初めてベスト盤『フェリシタシオン!』をリリースしたが、それに続く新作『ASTOR PIAZZOLLA』は、タイトルどおりピアソラ作品集。これまでも彼の楽曲に取り組んだことはあるが、作品集は初めてだ。
「ピアソラとの出会いは17歳の時。フランスのモルジーヌであったギター講習会で、初めて『タンゴの歴史』を聴いて室内楽の素晴らしさを知り、将来いつか自分も取り組みたいと思い続けてきました」
その望みが彼の没後20年にあたる今年に実現したわけだが、《タンゴの歴史》や《タンゴ組曲》、《ブエノスアイレスの四季》を中心とした構成で、それらをソロ演奏をはじめ、ギター、フルート、バンドネオンとのデュオという4編成で聴くことが出来る。ギターの共演者に選ばれたのは日本在住のアルゼンチン人、レオナルド・ブラーボで、《タンゴ組曲》と《来たるべきもの》で共演している。
「レオナルドさんの来日は、日本のクラシック界に少なからず影響を与えていて、最近彼が福岡から東京に活動拠点を移した時は、みんながざわめいたというか、話題になりました。彼はピアソラの音楽全体に対して強いこだわりがあり、それが明確に演奏から伝わってくるので、僕も絶対的な信頼の下、演奏で会話できる。そのやりとりがうまくいきました。ピアソラの作品にはリズムの取り方とか、歌い方にアルゼンチン特有のなまりというか、語法があるので、彼にそれを教えてくださいと言ったところ、日本語で話せるピアソラをやろうよと言ってくれて。それでさらに安心して演奏することが出来ました」
アルバムの制作に入る前にピアソラ本人のものはもちろんのこと、過去のあらゆるレコーディングを聴き、自分なりのピアソラの歌い方を構築していったという。そのなかで一番多くの時間を費やしたのが《ブエノスアイレスの四季》。ブラジル人ギタリスト、セルジオ・アサドがアレンジしたヴァージョンを演奏している。
「ピアソラが五重奏でレコーディングしているものがいろいろ遺されているので、それらを聴いてアーティキュレーションのかけ方とか、歌い方などを探りました。オリジナルにはアサドのアレンジと異なるところがあり、フレーズから次のフレーズへ展開するところで、ヴァイオリンのギコギコと弾く特殊奏法があったりするので、それを取り入れることで場面展開が生きたりとか、装飾音符を加えたりして、歌い方を完全に変えたところもあります。アサドが聴いたら怒るかもしれない(笑)」
《ブエノスアイレスの四季》のうち〈冬〉は、2009年の『風の道』でもレコーディングしているが、その演奏とは違い、まるで空気を優しく抱くかのように音がまろやかに響き、音楽の世界に気持ち良く聴き手を埋もれさせてくれる。
「曲の解釈にも大きな変化がありますが、同時に弾き方、弦のタッチの仕方をここ数年で意識的に変えたことも関係していると思います。以前は、指が弦にタッチしている時間をなるべく短くして、瞬間のスピードと圧力で弦を弾くことを意識していました。でも、それを重視すると、コントロールがしにくいし、音が粗くなりかけてもいたので、今は反対に弦をどれだけ長くキャッチし続けられるか。そこにこだわり、探求しています」
プロデューサーでもある彼は、選曲はもちろん収録の曲順、ジャケットなどあらゆる制作に関わっており、いかに自分が納得しつつ、リスナーに満足してもらえる作品にするかで熟考を重ねた。そのなかで誰もが知る有名な《リベルタンゴ》をアルバムの冒頭に、そして最後をピアソラが初期に書いた知る人ぞ知る楽曲《大草原の夕暮れ》で終わることにした。
「師匠である福田進一さんがいつも世の中にあまり知られていない曲をアルバムに入れていて、僕を含めた弟子達は、そのスタンスを引き継ぎたいと思っています。《大草原の夕暮れ》をギターでレコーディングするのは僕がおそらく初めて。反対に《リベルタンゴ》は有名なので、この親近感がある曲で大萩が作ったピアソラの世界に入ってもらうのがいいかなと思ったのと、リピートして聴いてもらった時には《大草原の夕暮れ》から《リベルタンゴ》への流れもいいと思ったので…」
ジャケットは、偶然の出会いだが、生前のピアソラを撮った日本人写真家である菊地昇氏が撮影。これまでの爽やかな大萩康司の印象とは異なり、陰影のある横顔に33歳になった大人の彼と、ピアソラ自身の称賛と批判の両方を繰り返し浴びた人生と音楽が重なり、イメージが膨らむ。
最後に新技術のHRカッティングが採用されたことで、「スタジオで自分に聴こえているのと同じような音がCDでも鳴ってくれる。たとえば、弦に対する指の圧力、フルートを吹く時の風圧といったものが生音に近い状態で聴けたのは衝撃でした」と言うが、この言葉どおり指の動きが見えるような臨場感を楽しむことができる。