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第66回――リアル・ベンE・キング

連載
IN THE SHADOW OF SOUL
公開
2013/04/24   00:00
ソース
bounce 354号(2013年4月25日発行)
テキスト
文/林 剛


“Stand By Me”や〈ラストダンスは私に〉など、現在も歌い継がれるスタンダードのオリジネイターとして知られるベンE・キング。ただ、彼の魅力はそれだけじゃない! 今回は待望の初CD化作品を軸に、キングのキングたる理由を紹介します!



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ベンE・キングといえば“Stand By Me”の人……という認識は、恐らく今後も覆されることはないだろう。61年に大ヒット(R&B1位/全米4位)し、86年に同名映画の主題歌としてリヴァイヴァル・ヒット(全米9位/全英1位)した同曲で彼の地位は絶対的なものとなった。一方で、それゆえに〈一発屋〉のオールディーズ歌手的な扱いを受けてしまうことも少なくないが、言うまでもなくベンには多くのヒットがあったし、ソウルのパイオニアのひとりとしての功績は計り知れない。

本名はベンジャミン・アール・ネルソン。1938年にノースキャロライナ州ヘンダーソンで生まれたベンは、9歳の時に一家でNYに移住し、高校時代にはフォーB'sというヴォーカル・グループでドゥワップなどを歌っていた。フォーB'sは地元で評判となるが、特に注目を集めたのがベンのバリトンで、歌の才能を買われたベンは、あのムーングロウズに半年近く関わった後、地元のファイヴ・クラウンズに加入。これが50年代後半のことで、ファイヴ・クラウンズはアトランティックの名門グループ、ドリフターズの前座を務めるまでになる。

そのドリフターズだが、リードのクライド・マクファター脱退後に人気が低迷し、58年には解散状態になっていた。そこで当時のマネージャーがファイヴ・クラウンズにドリフターズの屋号を継がせるという荒業に乗り出し、ベンを新生ドリフターズのリードに任命する。それはアトランティックというレーベルの看板を背負うことも意味していた。

だが、そこに結果がついてきたのが凄いところ。すでに同社でコースターズを成功に導いていたジェリー・リーバー&マイク・ストーラーをプロデューサーに迎えた彼らは、59年の“There Goes My Baby”を筆頭に、“Dance With Me”“This Magic Moment”“Save The Last Dance For Me”といったヒットを放ち、当時のNYらしい都会的な洗練を感じさせる華やかでポップセンスでファンを獲得していく。そして、何よりも曲を印象深いものにしていたのが、男臭く無骨でありながら甘く柔らかなベンの歌声だった。そんな彼だけに新ドリフターズ誕生から1年ほどでソロへの道が自然に開け、ほどなくして傍系のアトコから〈ベンE・キング〉という名で独り立ちする。

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最初のソロ・ヒットは、〈オペラ歌手の気分で歌った〉という“Spanish Harlem”(60年)。フィル・スペクターがペンを交えたラテン・タッチのサウンドが光る曲で、後の“Amor”も含むこうしたアプローチは、ベンがNYに引っ越して最初に住んだ東ハーレム、つまりスパニッシュ・ハーレムの近くで日常的にラテン音楽が飛び交っていたことに着想を得たのだという。そして、それに続いたのが“Stand By Me”“Don't Play That Song”“I(Who Have Nothing)”といったヒットで、60年代前半のベンは〈リズム&ブルース〉が〈ソウル〉と呼ばれる時代へ移行する端境期のスターとして君臨。実際、『Apollo Saturday Night』(64年)としてライヴ盤化されたアトランティックのレヴューでは、当時駆け出しだったオーティス・レディングらより格上の存在としてベンがヘッドライナーを務めている。

が、リーバー&ストーラーに代わってバート・バーンズやアリフ・マーディン、ボブ・ギャロ、ドン・デイヴィスらがプロデュースを手掛けた60年代中〜後期には、ライヴァルたちの陰に埋もれてしまう。いや、後にUKで『What Is Soul?』というアルバムにまとめられた当時のディープ・ソウル・マナーの曲はベンのハードで情熱的な歌と相性が良かったし、それゆえにソロモン・バーク、アーサー・コンレイ、ジョー・テックス、ドン・コヴェイとのソウル・クランというユニットも企画されたわけだが、チャート的には苦戦。結果、ベンはみずから身を引く形でアトランティックを去り、マクスウェルやマンダラなどのレーベルで作品を発表するも、ほとんどヒットの出ない日々を過ごす。

それでも彼には運がついていた。70年代のある日、マイアミのショウでスティーヴィー・ワンダーの曲を歌っていたベンをアトランティック創業者のアーメット・アーティガンが偶然見かけ、再契約を持ちかけたのだ。そこで“Supernatural Thing Part.1”(75年)を吹き込むと、これが“Stand By Me”以来となるR&Bチャート首位(全米5位)に輝く。同曲を含むアルバムもヒットし、続いてフィラデルフィア録音を試み、さらにラモン・ドジャーらと組んだアルバムも発表。そして、アーメットの勧めでアヴェレージ・ホワイト・バンドともセッションをしていたベンは、彼らとの共同名義作『Benny And Us』(77年)もリリース。ファンクやディスコともいい相性を見せた。

しかし、時流に沿った楽曲作りは80年代前半でストップ。その後の“Stand By Me”のリヴァイヴァルはベンの名を一時的に浮上させるも(91年にはイチバンからアルバムを発表)、却って〈懐メロの大御所〉というイメージを強めてしまった。が、〈スタンド・バイ・ミー財団〉を設立して慈善活動を行いながら地道に歌い続けるベンは、それでいいのだろう。サム・クックやレイ・チャールズらとソウルの礎を築いた人物がいまなお活動しているという事実、それだけでも驚くべきことかもしれない。



▼関連盤を紹介。

左から、86年のサントラ『Stand By Me』(Atlantic)、ベンE・キングの2011年作『Dear Japan, 上を向いて歩こう』(ユニバーサル)

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